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春耀幻花


<32>



 鞭が空を切るたび、咲耶の肌に薄紅の条が描かれていく。

 影佐は手を休める事なく続けざまに咲耶を打擲したが、鍛錬された彼の鞭は、柔らかな皮膚を裂くことがない。

 鞭の穂先が肌に届く紙一重のところで、反転した穂先が踊り、バチンと弾ける音が鳴る。

 敏感な刺青の上を打たれると、咲耶は狂ったように反応し、悩ましく踊った。

 絶妙にコントロールされた鞭の連打に、咲耶の悶えが激しくなり、勃起した肉茎が腹につくほど反り返る。

「ああっ、ああっ、ああぁっ!」

 打たれるたびに悲鳴がせっぱ詰まったものに変わり、惚けたように緩んだ唇からたらりと涎が滴り落ちる。

 被虐の悦楽を、感じているのだ――。

 痛みは確かにあるはずなのに、それ以上の快感に襲われ、咲耶は今にも絶頂に達しようとしている。

 凄惨でしかないはずの鞭打ちを直視させられていた八尋は、目を閉じることもできずに凍りついていた。

 見てはいけない。そう思うのに、瞼が閉じられない。

 自分が鞭打たれているかのように、だんだん息が詰まって、苦しくなる。

「あ、ああっ…イクっ! イクぅ…ッ! 八尋、見ないでッ!」

 一気に紅潮した咲耶の躰がガクガクと跳ね、触れられてもいない男根から白濁が飛び散った。

 非情な三白眼を細め、薄い唇を微笑の形につり上げた影佐は、鞭を床に放り出すと、身につけていたグレーのワイシャツを脱ぎ落とす。

 がっしりと鍛え上げられた上半身が露わになると、隆起した双肩から背中、腰へと続く一面に、紅蓮の炎と曼珠沙華、猛々しく咆哮する黒竜が現れた。

 禍々しくも鮮やかな刺青は、咲耶と重なると一幅の絵のようになっている。

 それに気づいた時、八尋は影差の底知れぬ執着を垣間見た気がした。

 鷹巳に命じられた仕置きとは別の次元で、影差は咲耶を貪り食おうとしている。

 咲耶の後肛を穿つディルドを抜き取り、恐ろしいほど太く長い肉矛を影佐が突き立てた瞬間、八尋は背筋を凍りつかせておののいた。

「ひいいぃっ! イったばっかり……ッ――も、もうっ……やめて…ッ!」

 引き裂くように咲耶を犯す影佐は、絶え間なく響く嬌声を楽しむように、機械的な規則正しさで腰を打ちつける

 背後から咲耶の両足を抱え上げ、宙に浮くような形で後蕾を突き上げる影佐は、汗を滴らせ、全身から湯気を立ちのぼらせながらも、鬼のように厳めしい顔を崩さない。

 ときおりリズムを乱し、えぐるように腰を回すと、開きっぱなしになった咲耶の口から断末魔のような悲鳴が上がった。

 興奮の熱に煽られ、咲耶の大腿と局部に彫られた刺青の緋色が一層鮮やかに染まる。

 咲耶の情欲に濡れた声と、二つの肉体がぶつかり合う生々しい音に耳を塞ぐこともできず、八尋はついにきつく瞼を閉ざしていた。

 拷問にしか見えない交合に圧倒されてしまい、頭の中が真っ白になる。

「八尋。咲耶はあの影佐のものだ。影佐を怒らせるな。
 もし咲耶に手出しをしようものなら、私やお前であっても、あれは平気で傷つける。
 狂っているからな、影差は……咲耶に――」

 もの憂げに呟いた鷹巳が、怯えきっている八尋の顔を上げさせ、慰めるようなキスを唇に降らせた。

 咲耶は、影佐が作り上げた強固な檻から逃げられない。

 彼らの間に何があったのか判らないが、誰も手出しができない領域で、二人は繋がりあっている。

 だから、鷹巳でさえも、傍観者に徹しているのだろう。

 朦朧と見つめると、鷹巳は青ざめた八尋の顔から乱れた黒髪を払い、薄く微笑んだ。

「私はずっと、影佐が何故ああも咲耶に惚れ込んでいるのか理解できなかった。
 たったひとりの人間に、どうしてそこまで執着できるのか。
 だが、今なら……」

 混乱に揺れる八尋の瞳を見下ろしながら、鷹巳は独白するように囁き、謎めいた言葉を残した。




 久しぶりに幸せな頃の夢を見た──舞い散る爛漫の桜と、優しくそして少し寂しげに微笑む母の笑顔を。

 けれど、幸福な日々の情景は、すぐに深い悲しみへと変わってゆく。

 真っ白な病室からも大きな桜の樹が見えていたが、桜子が亡くなったのは、その桜が長い冬の後に芽吹き始めた頃だった。

「八尋……ごめんね──幸せにしてあげられなくて、本当にごめんね……」

 酸素マスクをつけていても苦しげに咳き込みながら、桜子は八尋の小さな手を握った。

「何を言っているの? ぼく、幸せだよ……お母さんがいてくれるから幸せなんだ。
 もう少しで、また桜が咲くね──そうしたら、首飾りを作ってあげる。
 お姫様みたいになるよ、だって、お母さんは世界で一番綺麗なんだから」

 桜子がどれほど苦労をして自分を育てているのか、小学校に入ったばかりとはいえ、八尋は何となく感じていた。

 だから、どんなに寂しくても、早く家に帰ってきて欲しいと泣くことができない。

 いつも精一杯元気なふりをして、謝ってばかりいる母を励ますことしかできなかった。

 その日も、小学校であった出来事をあれこれ話していたが、桜子の目から透明な涙が溢れ出すと、八尋は次の言葉を継ぐことができなくなった。

「あのね、八尋……これだけは約束して。
 お母さんと、八尋以外で、『御巫』と名乗る人に出会ったら、絶対に逃げるのよ。
 彼らに捕まってしまったら、あなたは……きっと不幸になる。
 だから、お母さんと同じ痣を、誰にも見せないで――」

 それまでに無い強い光を放つ目で八尋をじっと見つめ、桜子はやせ細った自身の首の痣に触れる。

 言いつけを守れば、母が元気になるなら……。

 涙をこらえながら大きくうなずいて見せると、桜子は安心したように微笑んだ。

「八尋──どうかもっと、もっと幸せになって……。
 あなたは…私と…あの人の……大切な宝物なのだから……。
 傍にいてあげられなくて……ごめんね──守ってあげられなくて……ごめんなさい……。
 いつか…きっと……幸せに……なれる…わ……」

 昏睡に落ちた桜子は、その後、二度と目覚める事はなかった。



 いつの間にか布団の上で眠っていることに気づきながらも、八尋は夢の続きに囚われたまま、肩を震わせて嗚咽をもらしていた。

(──お願い、傍にいて……ぼくをおいて逝かないで……ひとりぼっちに…なりたくない……)

 記憶の奥底に押し込めていた悲しみが、突然爆発したかのように胸をえぐる。

 ぐすぐすと鼻を鳴らし、流れ出してくる涙を封じようと躰を丸めると、不意に背後から誰かの腕が伸びてくる。

 背中にぴったりと人肌の温もりが重なり、力強い腕が八尋の躰を包み込んだ。

「八尋、大丈夫か?」

 耳に落ちてくる、気遣うような低い声。

 はっと両目を見開き、首をひねると、眉根を寄せた鷹巳が自分を見下ろしていた。

(鷹巳が、どうして……?)

 驚きに涙も止まってしまい、もっとよく見ようと、八尋はそろそろと躰の向きを変えた。

 だが、横たわっている鷹巳が、寝間着も着ず、裸のまま自分を抱いていることに気づくと、それ以上動けなくなる。

「悪い夢だったようだな。泣きながら、ずっと『お母さん、お母さん』と呼んでいた」

 悲しみをいたわるように、鷹巳は八尋の躰を抱き寄せた。

 広い胸に顔を伏せた八尋は、小さくうなずいて、伝わってくる力強い心臓の音に耳を澄ませる。

(鷹巳……ちゃんと、帰ってきてくれたんだ)

 生命の鼓動が、確かに聞こえる――彼の、温もりも……。

 息絶えた母の顔の冷たさは、今も指先に残っていて、思い出すたびに怖くなってしまうから、生きていると感じられる体温に安堵する。

(そういえば、鷹巳がこんな風に傍にいてくれるのって、初めてかもしれない)

 八尋が目覚める時には、すでに鷹巳は出かけていたか、身支度を整えている状態で、こんな風に無防備な寝姿をさらすことはなかった。

 もっとも、祇堂邸に八尋が住むようになってから、鷹巳はすぐに海外出張に行ってしまい、ほとんど一緒にはいられなかったけれど。

 今は、長い出張から帰ってきた鷹巳がこうして一緒にいてくれて、何よりも嬉しい。

『……おかえりなさい、鷹巳──無事に戻ってこられて良かった』

 伝えられなかった言葉を囁きかけるように唇にのせた八尋は、鷹巳の背中にそっと細い腕を回した。

 いったい、心が震えるほどの歓喜は、どこからくるのだろう?

 理由を探しても、やはり答えが出ない。

 助けてもらったから、というだけでは説明できない胸の高鳴りは、さざ波のような情熱を指先まで運んでゆく。

 鷹巳はふっと深い息を吐き出すと、八尋の長い黒髪をゆっくりと指先で梳き始めた。

 指の間をするすると滑る感触を楽しんでいるような、優しい仕草。

 静かに触れ合う喜びと、得も言われぬ心地よさにドキリとして、だんだん胸の内側が温かいもので一杯になってゆく。

 しばらくは何も言わず、髪を梳いていた鷹巳は、目を閉じていた八尋の顔を不意に上げさせた。

「覚えていないかもしれないが……夢を見ながら、お前は声を出していた。
 お前は幼い頃から、喋ってはいけないと、自分自身に禁じているのだろう。
 その無意識の枷が外れたなら、普通に話せるようになるのかもしれない」

 鷹巳の蒼瞳はいつもよりずっと優しい色合いで、見つめていると、また目頭が熱くなってくる。

 目元や頬に残る涙の痕を指先で拭われると、気恥ずかしさに襲われ、八尋はうつむいた。

『……ぼく、また、喋れるようになるのかな?』

 鷹巳の言葉が真実なら、どれほど嬉しいか――。

 話したいこと、聞きたいことが沢山ある。自分の声で、ちゃんと気持ちや考えを伝えたい。

 そう思うと、涙の雫がほろほろと溢れてしまい、八尋は鷹巳の背中に回していた腕を慌てて引っ込め、手の甲で両目をこすった。