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春耀幻花


<33>



「私はお前を、泣かせてばかりいるな」

 肘をつい手に頭を載せて、鷹巳がすりと笑う。

「お前から写真が送られてくるまで、私は泣き顔しか思い出せなかった。
 だが、咲耶と一緒にいる時は、いつも笑っているんだろう?」

 そう言われると、困ってしまう。

 確かに、咲耶といると楽しいし、笑顔が絶えない。

 祇堂邸での生活を楽しめるように、咲耶がいつも気を遣ってくれていたからだろう。

 その一方で、鷹巳と共にいる時は、胸の深いところから突き上げてくる激しい感情に揺さぶられてしまう。

 喜びも悲しみも抑えきれなくて、泣き虫だと思われたくないのに、どうしても涙が出てくるのだ。

(だけど……やっぱり、泣いてばかりじゃ、嫌がられるかもしれない)

 八尋が顔を曇らせると、鷹巳が瞳を覗き込むようにして問いかけてきた。

「仕置きは、そんなに辛かったか?
 死んだ母親に助けを求めさせるほど、お前を追い詰めたつもりはなかったが」

 どことなく戸惑っているような、微かに不審を潜ませた声音に、八尋は目をこする手を下ろして、ぽかんと鷹巳を見つめ返した。

(仕置きって……そういえば……

 鷹巳に何をされたのか、この目で何を見たのか――瞬時に思い出す。

 どうして忘れていられたのか不思議なほどの強烈な記憶に、全身の体温が一気に上がり、赤くなった顔から熱が噴き出した。

 鷹巳の質問を否定するように首を振った後で、それではあれが辛くなかったのかと自問自答してしまい、さらに混乱する。

 激しすぎる快感に苛まれた躰には疲労が残っているし、奥深く穿たれた余韻も感じられるが、朝方に見た夢の方がずっと悲し過ぎた。

 だから、鷹巳と一緒にいられる事で、むしろ安心しているのだろう。

 昨夜の記憶をひとつひとつ辿ると、逃げ出したくなるほど恥ずかしいのだが――。

「あれでも手加減は十分にしてやったぞ。
 咲耶は影佐に絞り上げられて、今日は起きられないだろう。
 あれは自業自得でしかないが……お前も、反省が足りないなら、今度は鞭を使おうか」

 顔色を忙しく変える八尋を見つめていた鷹巳は、唇の片端をつり上げて、意地悪く笑う。

 縛られ、鞭打たれながら絶頂を極めてしまった咲耶の痴態と、冗談とは思えない鷹巳の言葉におののいて、思わずイヤイヤと首を横に振りたくった。

 すると鷹巳が、真上から押さえつけるように覆いかぶさってくる。

 射抜くような強い眼差しに見すえられ、八尋は瞬くこともできずに固まった。

「八尋、今度こそよく覚えておけ。
 さもなければ、お前はその命さえ失いかねないのだから。
 私が噛んだ首の傷は、花嫁とみなされる刻印のようなもの。
 それはお前の貞操を縛り付け、他の男を拒絶する。
 もし裏切れば、毒となってお前を殺すだろう」

 厳しい口調で言い聞かせる鷹巳の双眸は真剣だった。

 八尋はそろそろと首に手を伸ばし、鷹巳に噛まれた傷に触れる。

 風呂場で咲耶に迫られた時、急に息苦しくなった――あれが、刻印の呪縛がもたらす効果だったのだろうか。

だが、一年経って、私が次の印が刻まなければ、お前は呪縛から自由になれる。
 それまで、お前が抱かれてもいい男は、私だけだ」

 思わず瞬きをすると、鷹巳はふっと嘆息をもらす。

「咲耶も、千佳子さんも、これに関して詳しいことは知らない。
 祇堂家の禁忌に関わることだからな。
 私も……実際に二度目を噛んだのは、お前が初めてだ。
 これまでずっと、コントロールできていると思っていたんだがな」

 きつく眉根を寄せた鷹巳の瞳には苦悩と悔恨が漂い、八尋は思わず手を差し伸べたくなった。

 何故だか、鷹巳がひどく悲しんでいるように見える。

 自分が人には言えぬ秘密を抱えているように、鷹巳もまた、想像もつかない重荷を背負っているのだろうか。

 だが、そっと頬に触れようとした手は、身を引いた鷹巳には届かなかった。

(――そ、そうだ。写真のこと、早くお礼を言わなきゃ)

 拒まれたようで悲しくなったが、気を取り直して、口を開きかける。

 今朝の夢を見て、母との大事な約束を思い出したから、鷹巳に聞いてみたいことも増えていた。

 ただ、それに関しては、後日に改めた方が良いのかもしれない。

 タブレットを探そうとして横たえていた上半身を起こすと、八尋はようやく見慣れない部屋の様子に気づいた。

 いつも寝起きしている水琴亭は純和風の造りだが、この部屋は完全に洋風な内装で、自分たちが眠っていたのも広々としたベッドなのだ。

「私の寝室だ。お前を水琴亭に戻すより、近いからな」

 驚愕している八尋の心情を察してか、ごろりと反対側に体を返した鷹巳が、サイドテーブルに腕を伸ばしながら説明する。

(鷹巳の、寝室ってことは……)

 ここは、咲耶が前に話していた祇堂邸の洋館で、いつの間にか運び込まれていたということになる。

 昨夜は気も狂わんばかりに攻められて、ぶつぶつと記憶が途切れてしまっているのだ。

(洋館の地下には、拷問部屋もあるって……)

 つまり、それは咲耶が鞭打たれていた、窓の無い密室のことなのだろう。

 あの部屋で影佐に何度となく嬲られたことを、咲耶は暗にほのめかしていたのかもしれない。

 背筋がぞくりと冷たくなり、思わず身震いした八尋の前に、鷹巳が白紙のメモと備え付けのボールペンを差し出してくる。

 首を傾げた八尋を見て、鷹巳は片眉をつり上げた。

「何か、私に言いたいことがあったんだろう?
 お前のタブレットは、水琴亭に置きっぱなしだ。
 面倒だろうが、それに書いてくれ」

 自分の思考が飛躍していたことに気づき、八尋は曖昧にうなずきながらメモを手に取った。

 視線を動かすと、先ほどと同じ体勢で側臥になった鷹巳の姿が目に入る。

 一度起き上がったせいで、薄い上掛けが腰の辺りまでずり落ちてしまい、逞しい胸元や筋肉が引きしまった腹部が露わになっていた。

 自室でリラックスしているからなのか、いつもより艶っぽく、退廃的にも見えて、目のやり場に困ってしまう。

(ちょっと日に焼けたのかな……。エル・ラサルは暑いって言ってたし)

 夜の間は気づかなかったが、カーテンから薄日が差し込む寝室では、浅黒く染まった顔や腕と、白いままの胸や腹の肌の違いが判る。

 余計なことばかり考えている自分が恥ずかしくなり、八尋は急いでメモとボールペンに集中した。




『エル・ラサルの写真、送ってくれてありがとう。すごく、すごくうれしかった』

 受け取ったメモを読んだ鷹巳は、わずかに目を細め、口許をほころばせる。

 八尋の質問責めを微かに警戒していたような冷たい雰囲気が、その瞬間にすっと溶けた。

「だいぶ字が上手く書けるようになったな。二週間の練習の成果か?」

 気づいてもらえた喜びに、自然と笑顔が戻り、八尋は大きくうなずく。

 鷹巳は片手をついて上半身を起こすと、遠い記憶を探るような眼差しを窓辺へと向けた。

「あの程度の写真で、お前が喜ぶとは思っていなかったが……。
 お前からのメールを見て、子供の頃、海外に行っていた両親が、留守番をしている私に必ず写真を送ってきていたことを思い出した。
 父はともかく、母は変わり者と有名な考古学者だったから、ほとんど岩場にしか見えないような写真ばかりだったがな」

 いつも冷徹な鷹巳が、自身の過去を話すのは、とても珍しいことなのかもしれない。

 ふとそんな風に感じて、八尋はぺたりとベッドの上に座り直した

『鷹巳のご両親って、今はどこに住んでいるの?』

 祇堂邸では一度も姿を見かけたことがなかったし、話題に上がったこともない。

 良い機会かと思い、ゆっくりと囁くように訊ねると、八尋に目線を戻した鷹巳は、静かな表情を変えぬまま言った。

「二人とも死んだ。エル・ラサルの王位継承問題を巡るクーデターに巻き込まれてな。
 同じ車に乗っていて、生き残ったのは、私ひとりだった」

(――え!?)

 愕然と両目を瞠った八尋を見つめたまま、鷹巳は自身の蒼瞳を指し示す。

「私の目が青く染まったのは、その時からだ。
 それまでは普通の日本人と変わらなかったが、死にかけた後、色が変わった。
 中東辺りでは、青眼は『邪視』と呼ばれている。
 実際、ひとりだけ生き残った私の目を見て、エル・ラサルの現地人は恐れた。
 災厄を呼び寄せたのは、私の邪視のせいなのだろうと。
 もっとも祖父だけは、『神』に守られた証だと喜んでいたが……」

 衝撃的な鷹巳の過去に反応すらできなかった八尋は、神と聞いて、祇堂家に奉られている祠を思い出した。

 どことなく不思議な空気を漂わせる祇堂家の守り神と、鷹巳の間には、何か強い繋がりがあるのだろうか。

 そして、エル・ラサル王国は、鷹巳に苦痛をもたらす場所かもしれないとも思う。

 仕事とはいえ、両親を失った国に行かなければならない鷹巳は、いつも何を感じていたのだろう。

 無神経にお土産をねだってしまった自分が、急に恥ずかしく思えた。