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春耀幻花


<34>



『ごめんなさい。ぼく……何も知らなくて――鷹巳に嫌な思いをさせたかも……』

 囁き声にすらなっていないことにも気づかず、八尋がうなだれると、鷹巳は呆れたような苦笑をうかべた。

「お前が謝ることは何もない。
 両親の事をお前に教えなかったのは私なのだし、これに関しては家の者に口止めもしてあった。

 誰かから不確かな噂を聞かされるくらいなら、私から告げた方がいいと考えていたからな」

『うん……教えてくれて、ありがとう』 

 躊躇いがちに微笑むと、腕を伸ばした鷹巳が、八尋の頭をぽんぽんと叩く。

 慰められているような、励まされてもいるような仕草に胸がきゅんとなり、八尋は思いきって鷹巳の頬に触れていた。

『ぼく、鷹巳の目、好きだよ。とっても綺麗だから。
 ぼくの目だって、ずっと変だって、気持ち悪いって言われてたけど……』

 日本人であるのに、紫がかった八尋の瞳は気味が悪いと、祖母の瀬織政子に厭われていた。

 人を不安に陥れ、あるいは淫欲に溺れさせるあやかしの眼だと。

 自分に何の力も無いことは、八尋自身が一番よく知っていたが、それでも理不尽に詰られて心が傷ついた。

 両親を殺害されて、激しいショックを受けた幼い頃の鷹巳は、自身に起きた変化と、他人からの心無い言葉に傷つきはしなかっただろうか。

 同情よりも重い共鳴を感じて、どうしようもなく切なくなる。

 子供時代の鷹巳が感じていた孤独や絶望を、少しでも癒したい。

 そう思うのに、何を伝えたらいいのか判らなくなって口ごもり、八尋は鷹巳の首根に両腕を絡め、とっさに抱きついた。

『ぼくたち……もっと早く、出会えていたらよかったね』

 そうすれば、こんな寂しい思いを何年も抱え込まずに済んだかもしれない。

 突然しがみついてきた八尋に驚いたのか、鷹巳は一瞬躊躇うように身を強張らせると、その後で背中に腕を回して強く抱き締めてくれる。

「――『ぼく』じゃない。『わたし』と呼べと、言っておいただろう。
 お前は本当に……私の花嫁だという自覚が足りない」

 咎める言葉は耳元で優しく囁かれ、躰の内側に甘やかなさざ波を起こした。

『ごめんなさい……忘れてました』

 咲耶も千佳子も、八尋があるがままに振る舞うことを許してくれていたから、鷹巳から命じられた女性らしい言葉遣いがすっかり頭から抜け落ちていたのだ。

「お前を見ていると、だんだんどうでもよくなってくるがな。
 どうせ、私がいない間、私のことも忘れかけていたんだろう?」

 しどろもどろに謝った八尋を胸に抱き寄せたまま、鷹巳がくすくすと笑う。

 そんな事は無い。

 それだけは、忘れない――毎日、毎日、祇堂家の神様にお供えをして、鷹巳が無事に帰ってくるように祈り続けていたのだから。

 反論しようとぱっと顔を上げると、視線が絡み合う。

 目に見えない引力に吸い寄せられるように八尋の唇が解けると、うなじを押さえられ、口づけが降りてきた。

「……あっ、ふっ……」

 溜息と喘ぎがこぼれ、囚われた心も躰と共に溶けてゆく。

 深く重なり合った唇の内側で、鷹巳の舌が八尋の口の中を撫で、震える舌を何度も絡め取った。

「いつも私のことを思い出すように、もっと厳しく花嫁修行をしなければならないな」

 名残惜しさを残して唇が少し離れると、惚けている八尋の髪を撫でて、鷹巳が密やかに笑う。

 濃密なキスの快感に溺れていた八尋が、我に返って瞬きをした時、朝の空腹に耐えかねたのか、胃袋が突然グウと抗議の訴えを起こした。

「食事にするか。母屋に行けば、何かありつけるだろう」

 真っ赤になった八尋を見つめ、軽く噴き出した鷹巳が、くっくと喉を震わせて楽し気に笑い始めた。



「今朝はみんな、お寝坊さんね」

 鷹巳と連れだって母屋のダイニングルームに入ると、割烹着姿の千佳子が笑顔で迎えてくれた。

 時計の針は午前10時を回っていたが、嫌な顔ひとつせずに朝食を出してくれる。

 祇堂家には専属の料理人がいるが、毎日の朝食と時々のランチは千佳子の手によるものだった。

 わざわざ作る必要はないらしいのだが、千佳子の趣味であるらしい。

「時差ボケのせいか、目覚めが遅くなって申し訳ない。
 八尋にも付き合わせてしまいました」

 千佳子が祖父の後妻という立場上、さすがに多少の遠慮があるのか、鷹巳は幾分丁寧な応対をする。

「鷹巳さんはお忙しいんだから仕方がないわ。
 久しぶりだから、八尋さんともお話しになりたい事があるでしょうし。
 問題なのは、咲耶ね――何をやってるのかしら、あの子?」

 椅子に座った八尋は、何も気づいていない様子の千佳子を見て、気まずくなった。

 咲耶と影佐の関係を、千佳子は知っているのだろうか?

 おずおずと視線を向けると、鷹巳は涼し気な表情を変えないまま一瞥を寄越し、口の片端を淡くつり上げる。

 何も言わないということは、黙っていろということだろう。

 罪悪感に苛まれていたたまれず、もじもじしていると、千佳子の方があっさりと話題を変える。

「八尋さん。せっかくだから、鷹巳さんに玉子焼き作って差し上げたら?」

(――え!?)

 不意打ちのような言葉に目を瞠ると、千佳子はにこにこと微笑んだ。

だって、あんなに一生懸命練習してたじゃない?
 鷹巳さんに食べて欲しかったからでしょう?

 そう言って、千佳子は嬉しそうな笑顔を鷹巳にも向ける。

「八尋さんね、毎日、お料理の練習をしたり、私のお手伝いをしてくれたり、本当に頑張っていたのよ。
 だから、是非召し上がってくださいな」

 思いがけない展開に、八尋は半ばパニックに陥っていたが、鷹巳は興味深そうに双眸を細めて微笑した。

「それは楽しみだ。
 千佳子さんが教えてくださったなら、上手になったでしょう」

「そうなの。私も娘ができたみたいで、嬉しくって」

 本音なのかどうか判らない鷹巳の言葉に、千佳子が喜んでころころと笑う。

 二人に見つめられると恥ずかしさで顔が熱くなり、うつむいた八尋は断ることもできなかった。

 促されるまま、全く心の準備ができずにキッチンに立った八尋は、千佳子が買ってくれた割烹着を浴衣の上から身に着け、何度か深呼吸をする。

 二週間、ほぼ毎日焼いていたから慣れたはずなのに、いつになく緊張してしまう。

 卵を割る手が震えているのを見て、傍にいた千佳子がぽんぽんと励ますように両肩を叩いてくれた。

「大丈夫よ。いつも通りにやればいいだけなんだから」

 いつも通りがどんな風だったか――緊張のあまり、それすらも判らなくなっていたが、使い込まれた銅のフライパンを火にかけると、ようやく気分が落ち着いた。

 鷹巳のためだけではなく、いつも通り、神様へのお供え。

 あえてそう思うことにして、できるだけ平静を保つ。

「綺麗に焼けたわね」

 けれど、千佳子の褒め言葉を聞くと、安堵のあまり、その場にへたり込みそうになった。

 神様へのお供え分を別にして、千佳子が用意してくれた涼し気な水色の皿に玉子焼きを盛りつける。

 端の部分を恐る恐る味見をしてみたが、「不味くはない」と感じるものの、味覚が麻痺しているのか、「すごく美味しい」とも思えなかった。

(鷹巳の口に合わなかったら、どうしよう……)

 自信が無いままダイニングルームに運ぶと、いつの間にかテーブルに宗政が同席していて、真剣な顔で鷹巳と話し合っている。

 立ち止った八尋に気づくと、宗政は穏やかに顔をほころばせた。

「ああ、八尋さんの玉子焼きか。なかなか旨いぞ」

「……食べたんですか?」

「お前がいない間、よく焼いてもらった。上達が早くて、感心したものだ」

 片眉を跳ね上げた鷹巳を見やり、宗政は愉快そうに笑う。

 曖昧に微笑むことしかできず、八尋は鷹巳の前に玉子焼きを置いた。

 興味を惹かれたように、箸で切った玉子焼きを一口食べて、鷹巳がぼそりと呟く。

「ああ……確かに旨いな」

 その反応に、八尋はほっと胸を撫でおろしたが、千佳子はいかにも不満げに唇を尖らせた。

「それだけ?」

 他に言うことは無いのかと目で訴える千佳子を、鷹巳はちらりと見上げ、仕方なさそうに箸を置く。

「千佳子さんが作る玉子焼きと同じ味がする。
 日本に戻ってきたと実感できますよ」

「それは、褒めてるおつもりなの?」

「最高の褒め言葉だと思ってますが、気に入りませんでしたか?」

「私はともかく、八尋さんに伝わっているのかしら?」