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二人のやり取りを黙って聞いていた宗政が、急に笑い出し、なおも憮然としている千佳子をたしなめた。
「その辺にしておきなさい、千佳子。
鷹巳にとっては、お前の料理が家庭の味だ。
腹が減っている人間には、黙って食べさせてやるがいい」
どういうことかと首を傾げる八尋を見やり、鷹巳が弁解するように苦笑する。
「私の母は、手料理が壊滅的だった。
食えればいいと考えていたようだが、どれも食えたものではなかったな。
本人も自覚があって、キッチンにはほとんど立ち入らず、料理人に任せきりだった」
八尋に対して、鷹巳が自ら母親について語ったのが意外だったのだろう。
宗政は少し驚いたように鷹巳を見つめた後で、口許に穏やかな笑みを浮かべた。
「あれは、包丁など握ったことのない女だったからな。
本人にまったくやる気が無いのだから仕方がない」
変わり者と有名な考古学者で、料理ができない――亡くなった鷹巳の母親は、かなりユニークな人柄だったようだ。
だが、たとえ料理上手ではなくとも、鷹巳にとっては大切なお母さんだったのだろうし、他にも幸せな思い出や楽しい記憶も沢山あっただろう。
祖父の言葉に相槌を打っている鷹巳を見つめ、想像を巡らせていた八尋は、ふと切なくなった。
目の前で両親を失うことが、どれほど辛いことか……。
何もできずに桜子の最期を看取った八尋には、とても他人事だとは思えなかった。
「ほら――八尋さんも椅子に座って、朝ご飯にしなさい。
年寄りの昔話に付き合っていると、長くなってしまう」
宗政に促されて席に戻った八尋は、自分で作った玉子焼きを改めて食べてみた。
祇堂家の味が千佳子の料理であるなら、同じように作れたことを喜んでもいいのかもしれない。
(お母さんの玉子焼きは、もうちょっと甘かったかな)
千佳子のレシピ通りに作ると、出汁の効いた上品な味になるのだが、桜子の玉子焼きはもっと大ざっぱで甘味が強かったような気がする。
焦がしてしまった事も多かったけれど……それでも、懐かしい味だった。
ふと眺めると、鷹巳は黙々と食事をしていて、八尋が作った玉子焼きもすぐに無くなってしまう。
宗政が言った通り、顔には出さなかったがお腹を空かせていたのかもしれない。
こうして鷹巳とテーブルを囲み、一緒に食事ができることが無性に嬉しく感じられ、じんわりと喜びが胸に溢れてきた。
ずっとひとりきりだったから、家族になれたような気さえする。
(もっとお料理、頑張ろうかな)
他の料理も上手く作れるようになって、皆に食べてもらいたい。
そんな事を考えていると、頃合いを見計らってお茶を注ぎ足しにきた千佳子が、鷹巳に話しかけた。
「そうそう。もしお仕事が休めるようなら、八尋さんを、どこかに連れて行ってあげてくださいな。
この二週間、どこにも行かずに、鷹巳さんを待っていたんだから」
「どこかに……というと――八尋、お前は、どこに行きたいんだ?」
わずかに眉をひそめ、鷹巳が問うてくる。
急に話題を振られても、タブレットもメモも無く、返答のしようがないため、八尋は慌てた。
そんな八尋の反応を見越していたかのように、千佳子がにこにこと笑う。
「花火大会に行きたいって、言ってたわよね。
遊園地や動物園も楽しそうだって」
『む、無理に出かけなくてもいいから……』
外国から帰ってきたばかりで、鷹巳はきっと疲れているだろう。
声に出せないまま訴えたが、腕時計に視線を落とした鷹巳は気づいていない。
「出かけてきたらどうだ?
出張は今日までの予定だったし、明日は休みを取ってあるんだろう。
八尋さんがいくら聞き分けが良くても、こんなに長々と放っておかれたら、退屈で浮気のひとつもしたくなる」
千佳子を援護をするように、宗政が含み笑いをしながら口添えると、鷹巳は冷やかな目で祖父をじろりと睨んだ。
「社運を賭けたプロジェクトだと、散々力説していたのはあなたでしょう。
とにかく……今日は夕方まで予定を入れてあるから、出かけるならその後です。
花火大会は、今夜ですか?」
「いつだったかしら? 来週?」
曖昧な記憶をごまかすように、千佳子は頬に手を当てて笑うと、八尋の背後に回って肩に手を置いた。
「それなら、夕方まで、八尋さんをお借りしてもいいかしら?
鷹巳さんとお出かけするのは、明日でもいいし」
訝しげな鷹巳の顔を見て、八尋がとっさに振り仰ぐと、千佳子が励ますように微笑んだ。
「わたし、八尋さんと一緒に、お買い物に行きたいの。
ショッピングだって、楽しいでしょう?」
いつも通り、お供え物を持って祠に向かう途中で、八尋は母屋にある咲耶の部屋に立ち寄った。
鷹巳は、宗政と話があるからとダイニングルームに残っている。
食事の後片付けを手伝っていると、千佳子から頼まれたのだ。
「悪いんだけど、咲耶の様子を見てきてくれないかしら?
こんな時間まで起きて来ないなんて、珍しいのよね」
何があったのか話せないことに良心の呵責を感じつつ、咲耶のことはずっと気がかりだったため、八尋は承諾した。
ちょっと顔を見てくるくらいなら、鷹巳も怒らないだろう。
「迷い家」と呼ばれるほど広い母屋の廊下を進み、いくつかの角を曲がると、一番奥まった場所にある咲耶の部屋に辿り着く。
この二週間で、迷わずに祇堂邸内を行き来できるようになっていることに、八尋はふと気づいた。
神様に気に入られないと、屋敷にとどまることができないらしいが、いつの間にかここは、どこよりもなじみ深い場所になっている。
(毎日玉子焼きをお供えしたから、神様も喜んでくれたのかな)
そうであれば嬉しい――ここにいても良いのだと、認めてもらっているような気がするから。
咲耶の部屋の前で膝を突き、漆塗りの食膳を廊下に置いた八尋は、声をかけるかわりにそっと障子をノックしてみた。
しばらく待っても、返事が無い。
咲耶は二間続きの和室を使っていて、奥の寝室は襖で隔てられているから、もしかすると聞こえなかったのかもしれない。
もう一度少し力をこめて竪框(たてがまち)を叩くと、奥の襖が引かれる音に次いで、目の前の障子がパンと開いた。
首を反らさなければ顔が見えないほどの大男が、裸体に浴衣を引っかけた状態で立ちはだかっている。
浴衣からにょっきりと突き出した二本の足は、長く頑健そのもので、視線を上げると、割れた腹筋や分厚い胸板が見えた。
裂傷のある影佐の顔を認めた瞬間、「ひっ!」と喉が鳴り、八尋は腰を抜かしそうになった。
「――何だ、お前か。鷹巳はどうした?」
ぼさぼさに乱れた髪を掻きながら、影佐が面倒くさそうに問うてくる。
咲耶の物らしき身丈の足りない浴衣をまとった姿は、むしろ肉体的な迫力が噴き出していて怖い。
隙の無い典雅な品格を常に漂わせている鷹巳に比べると、今の影佐は、崩れた無頼のようだった。
真っ青になっていた八尋は、ぶるぶる震える指でダイニングの方向を示す。
視線を送った影佐は、理解したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「……鐐士(りょうじ)……誰か来たの?」
「八尋さんだ。俺は風呂に入ってくる」
酷く掠れて、気怠げな咲耶の声が寝室から届くと、振り返った影佐が低く太い声で応じる。
硬直して動けないでいる八尋を見下ろした影佐は、目線を合わせるように突然しゃがみ込むと、酷薄そうな唇をにやりとつり上げた。
「鷹巳に潰されなかったらしいな。
まだまだ手加減されているようだが、あいつを本気で怒らせると、死ぬ思いをするぞ」
何を揶揄されているのか察すると、冷たくなっていた手足の先まで急に熱くなる。
真っ赤になって、口をぱくぱくと喘がせる八尋を面白がるように眺め、立ち上がった影佐はそのまま廊下を歩み去って行った。
(……か、からかわれた、だけ?)
すごく、心臓に悪い。
修羅のごとき形相で、咲耶を責め苛んでいた姿を覚えているだけに――。
ようやく鼓動が静まり、ほうっと溜息を吐き出すと、「入ってきていいよ」と咲耶に呼びかけられた。
畳に敷かれた布団の上でうつ伏せになっていた咲耶は、鞭打たれた背中を露わにして、腰から下だけを薄い掛布団で隠していた。
「ごめんね、八尋――恥ずかしい姿を見せちゃった。
あんなの見たら、軽蔑するよね」
両腕で作った腕枕に横顔を載せて、疲れ果てた様子の咲耶が自嘲的に微笑む。
濃密な情交の余韻漂う部屋に尻ごみしつつも、枕元にきちんと正座をした八尋は、ゆっくりと首を振って見せた。
自分も同じような目に遭ってきたから、軽蔑するより驚きが勝り、嬲られる咲耶が痛々しく感じられて仕方が無かった。
心ではどれほど拒絶しても、意思に反して高まる肉体の反応に、抗う術を持たない。
そんな風に、躰を変えられてしまうこともあるだろう。
さらに、たった今目撃したばかりの会話から、咲耶と影佐の関係が、想像していたより深いものだと感じられた。
そうであるなら……官能に支配された咲耶の反応は、当然だったのかもしれない。
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