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春耀幻花


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 どうしても口内に残る精液の不味さに眉をひそめつつ、八尋は嫌々ながら食膳に箸をつけた。

 のろのろと咀嚼する八尋を満足げに眺めながら、芳沢は「旨いだろう」と問いかけてくる。

 うなずかないと、次の食事をもらえなかったから、首を縦に振ることしかできない。

 精液を飲み下させ、口をゆすがせないまま食事をさせることが、芳沢の歪んだ性癖だった。

「……そういえば、大奥様が、夕方にお客を連れてくるそうだ。
 お前に会わせるつもりだから、しっかり支度をしておけだとさ」

 唐突に芳沢が話を始め、八尋は箸の動きを止めた。

 伏せていた睫毛を上げて芳沢を見返し、疑問を訴えるように首を傾げて見せる。

 正座をして食膳の前に座る八尋ににじり寄ってくると、芳沢はなれなれしく太い腕を肩に回してきた。

「あの鬼婆、借金のかたに、お前を売り飛ばすつもりらしいぜ。
 相手は、政財界の大物とも繋がりの深い、成金だって喚いていたなあ
 見かけによらず、借金まみれなんだよ、この家は。
 孝明の方は、屋敷を手放すべきだと主張してたが、ありゃあ、無理だ。
 鬼婆には勝てっこない」

 瀬織家のことは、死んだ孝義からも、いろいろ詳しく聞かされていた。

 戦前は伯爵という特権階級、さらに遡れば宮家に連なる公家の血筋。

 生前、文部科学大臣だった孝義は、歴史ある瀬織家を何よりも誇りとしていた。

 つい先日まで当主だった孝義の死後は、実母である瀬織政子が、家内の万事を取り仕切っているらしい。

 新たに当主になった孝明は、政子の次男で、孝義の実弟だったが、兄と違い物静かな雰囲気の人だった。

 大人しい人柄だけに、強気な母や兄の意見に逆らうことができず、ひどく辛そうな顔をしていたけれど。

 瀬織家に引き取られてすぐ、孝明と一度だけ顔を合わせたことがあるが、八尋を見る目は驚きに満ちていて、御巫桜子の子だと知った後も蔑むことは無かった。



──君が八尋か。桜子に……美人だった君のお母さんに、そっくりだね。



 孝義にも同じ事をよく言われていたが、孝明の言葉を聞いた時、嫌な気がしなかった。

 むしろ、褒めてもらえたと、少し嬉しくなった。

 多分、孝義とは違う、優しい眼差しを向けてくれたからだろう。

「なあ、八尋。俺と一緒に、ここから逃げないか?
 お前が『うん』と言ってくれれば、ここから連れ出してやる。
 結婚して、ずっと二人で暮らすんだ。
 お前を他の男になんか、とられたくねぇんだよ」

 顔を寄せてきた芳沢の声が耳元で響き、八尋は我に返った。

 結婚? 芳沢は今、結婚と言っただろうか。

 耳の穴に息を吹きかけられ、怖気あがった八尋は、芳沢の胸を押しやりながらを首を横に振りたくった。

 大嫌いな芳沢と結婚なんて、考えたくもない。

 二人きりで暮らすと考えただけで、背筋がぞっとする。

 八尋の反抗を押さえこんだ吉沢は、力ずくで床に張りつけにしてしまうと、忌々しげに舌打ちをした。

「優しくしてやりゃあ、つけ上がりやがって。
 だったら、今すぐお前を犯してやる。
 これでも、死んだ旦那様にちっとは遠慮してたんだが、もう容赦はしねえ」

 拒絶に腹を立てた吉沢が、もがく八尋の顔を平手で打ちすえた時、土蔵の扉をドンドンと叩く音が響いた。

「芳沢! ここを開けておくれ!
 八尋様のお召し物を届けに来たよ」

 瀬織家の使用人が、大声で叫ぶ。

 獣のような唸り声を上げて立ち上がった芳沢は、どかどかと床板を踏み鳴らしながら戻り、内側から観音開きの大扉を引いた。

 痛みに疼く頬を押さえた八尋は、顔を見られないように暗がりに引っ込むと、入れ違いに出入りする二人の様子をひっそりとうかがった。

 一度、八尋を睨みつけた芳沢は、諦めた様子で食膳を片づけ始める。

 罵り合いながら二人が出て行った後、残された桐作りの衣装箱には、一揃いの着物が用意されていた。

 単衣の振袖と、たっぷりと刺繍が施された絽半襟が縫い付けられた長襦袢。

 涼やかな薄紫色の友禅には、紫陽花や鉄仙、百合、薊といった季節の花が描かれていた。

 添えられた銀色の帯は、露芝と流水紋様が織り出されていて、緑色の芝草に小さな蝸牛が乗っている。

 誰が合わせたのか判らないが、梅雨の季節を描いた柄合わせになっていた。

(……もしかして、お祖母様が、僕に、これを?)

 お客様と面会させるために、わざわざ誂えさせたのだろうか。

 仕立てに一か月くらいかかると考えれば、孝義の死後、大急ぎで準備したことになるが。

 まさかと思いながら着物を手に取り、そっと袖を通してみる。

 はんなりとした友禅を羽織り、背丈ほどもある大きな三面鏡の前に立った八尋は、途方に暮れた顔をしている自分自身を見つめ、首を傾げた。

 庶子とはいえ、八尋も瀬織孝義の子供だったから、政子にとっては孫になるはずだった。

 だが、かつて一度も、優しい言葉をかけてもらった記憶が無い。

 むしろ政子は八尋のことを嫌悪していて、まるで汚らしいものを見るような目つきを向けてくる。

 老いても鋭い政子の眼光が、いつも怖かった。

 けれど、もしかしたら政子は、心の中では八尋のことを少しは可愛いと思ってくれただろうか。

 だから、こんな風に綺麗な着物を届けてくれたのだろうか。

 そうだったら、どんなに良いだろう。

 いつの日か、「おばあちゃん」と呼ぶことができたら──。

 ふと想像を膨らませた八尋は、そんなはずはないと思い直し、鏡の中で苦笑を浮かべた。

 瀬織政子にとって、八尋は愛すべき孫ではなく、憎むべき殺人者でしかない。

 彼女が誰よりも可愛がっていた孝義は、この土蔵の中で心臓発作を起こし、死亡した。

 糖尿病を患っていた孝義は、あの日、いつものように八尋を嬲りながら、怪しげな薬を服用して……。

 緊縛され、身動きできなかった八尋は、孝義が突然苦しみ出した時、ただ見ていることしかできなかった。

 慌てふためいた芳沢が土蔵の外に飛び出し、母屋に助けを求めに行く間、もがき苦しむ父をぼんやりと眺めていた。

 駆けつけてきた政子が目の当たりにしたのは、全裸のまま苦悶する息子と、淫らな姿で縛られた八尋の姿。

 悲鳴を上げ、卒倒する政子の横で、たまたま生家に戻ってきていた孝明が叫んだ。

「救急車を呼べ!」と。

 その後は蜂の巣を突っついたような大騒ぎだったが、孝明の手で解放された八尋は、そのまま気を失ってしまった。

 瀬織孝義が死亡したと伝え聞いたのは、桜が満開になった、通夜が行われる日の朝のことだった。



 鳴り止まない雷が空気を震わせ、天窓から稲光が射し込んでくる。

 身支度を整え、格子戸の前で頭を下げていた八尋は、ぽかんと開いてしまいそうな口を慌てて引き締めた。

 瀬織政子と共に土蔵に入ってきた長身の男──彼は、孝義の葬儀に訪れていた弔問客のひとりで……老桜の下に立っていた祇堂鷹巳だった。

 黒づくめの喪服だったこの間とは違い、涼やかな薄灰色の三つ揃いを身につけている。

 テレビによれば、六月一日から「クールビズ」というのが始まっていて、ジャケットやネクタイを着用しなくても許されるらしいが、きちんとネクタイも締めた鷹巳の服装には一分の隙も無い。

 背筋の伸びた凛とした立ち姿は、どことなく古い映画に出てくる軍人のよう。

 小さな所作のひとつひとつまで緻密にコントロールされた、厳粛な緊張感を漂わせている。

 見惚れてしまいそうになっていた八尋は、視界を遮った人影と目が合い、びくりと肩を震わせた。

 祖母が……睨んでいる。

 憎悪に満ちた眼差しは、八尋の浮き立つ心をたちまち縮こまらせてしまった。

 いつの間にか雨の音も、ざあざあと壁に叩きつけるように強くなっていた。