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春耀幻花


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 木格子の向こうから八尋を睨みつけていた政子は、ふっと視線を外し、隣に立つ鷹巳に話しかけた。

「この度の不祥事は恥ずべきことなれど、このような機会でもなければ、多忙な貴方をお迎えすることはできなかったでしょう。
 お祖父様はつつがなくお過ごしですか?」

 八尋の存在など目に入らないといった無関心さが、棘となって心に刺さってくる。

 小柄ながらも、しゃんと背筋を伸ばして立つ祖母を見続けることができず、八尋は反射的に目線を伏せた。

「恐れ入ります。幸いなことに、祖父は私以上に壮健で、周囲から呆れられているほどです。
 長命な祇堂の血が、祖父に引き継がれたのかもしれません」

「貴方のお祖父様のお祖父様は、百十八歳までご存命だったのですものね。
 それならばお祖父様も、まだまだお元気でいらっしゃるでしょう」

 丁寧に答えた鷹巳の声は、初めて耳にした時よりも滑らかに響いたが、情の通わない冷めた音色を帯びていた。

 和やかさとは程遠いぎくしゃくとした場の雰囲気をとりつくろうように、政子がホホホと上品に笑う。

 居心地が悪くなり、八尋は正座した足指をもぞつかせながら、そっと二人の様子をうかがい見た。

 その拍子に、木格子に手をかけて中を覗き込んだ鷹巳と目が合ってしまい、心臓が飛び跳ねる。

 彼の視線の先を追って振り返った八尋は、破廉恥な金屏風に気づくと、悲鳴を上げそうになった。

 こんな部屋を見られたくない──今までは何も感じなかったはずなのに、急に恥ずかしくてたまらなくなる。

 木格子の鍵を開け、政子が腰を屈めて戸口から入ってくると、ますます身の置き所が無くなった。

「この子が、お話していた八尋です。
 聞くところによれば、生きた人間を売り買いする組織があるとか。
 頭の中身はともかく、外見はこの通り美しい子です。
 紫がかった黒い瞳を持つ者など、滅多にいないでしょう。

 八尋を見れば……所有したいと思う好事家は多いはずですよ」

 肉親の情愛が一抹も感じられない言葉を、八尋は諦めと落胆の入り交ざった心持で聞いていた。

 嫌われているとは判っていたが、それでも……少しくらいは、気にかけてもらえるのではないかと思っていた。

 だが政子は、八尋を容赦なく追い出そうとしている。

 それどころか、見知らぬ誰かに売りつけようとしているのだ。

「確かに、販路やブローカーには当てがあります。
 しかしながら、瀬織家のお姫様が、安易に口になさる事ではありません。
 売られた者の末路は悲惨なものです」

 雷鳴の途絶えたわずかな静寂、光が交錯する薄闇の中で、聞き惚れるほど艶やかな低音が流れる。

 政子に続いて牢内に入ってきた鷹巳は、躊躇う様子を微塵も見せず、八尋の前に片膝をついた。

 すっと手を伸ばして八尋の顎を指先で持ち上げ、瞳の色を確認するように、うつむいた顔を上げさせる。

 涙ぐんでいた八尋は顔を背けようとしたが、鷹巳を見た途端、動けなくなった。

 影に沈んだ蒼瞳に、心が囚われてしまう。

 絶望や諦観を越えてしまったのか、鷹巳の双眸には無常感が漂っていて、それが悲しくなるほど綺麗に見える。

 息を喘がせた八尋の唇を、鷹巳の親指がそろりと撫でた。

「八尋は、瀬織家の疫病神です。
 この子を引き取ってからというもの、孝義は気狂いのように溺愛しました。
 孝義が死んだ今、瀬織家はこれ以上、この子を屋敷に留めておくつもりはありません」

 ヒステリックに政子が反駁すると、八尋の顔をとらえたまま振り返った鷹巳は、揶揄するように片眉をつり上げる。

 自分の事が話題になっているというのに、八尋はぼんやりとした夢心地のまま、鷹巳の横顔を見つめていた。

 顔に触れる指先が熱い。

 氷を刻んだ彫像のように冷然としているのに、少し触れられただけで、八尋の躰に不可解な熱が熾っていた。

「愛人の子とはいえ、孝義さんの子ならば、あなたの孫でしょう。
 それでもなお、可愛いお孫さんを追い出されるおつもりですか?」

「可愛いなどと……冗談でもおぞましい。
 この子は瀬織家の汚点でしかありません。
 孝義は八尋に殺されたのです。
 八尋さえいなければ、孝義は死なずにすんだ。
 あの忌々しい桜子にこれほど似ていなければ、孝義は瀬織家の立派な当主として今も元気に暮らしていたでしょう」

 正面できちんと重ねられていた政子の手が、力を込めて握り締められ、小刻みに震え出す。

 政子の双眸に鬼火のような怨恨が燃え立ち、感情に揺さぶられた声もまた震える。

 呆然と政子を見上げた八尋は、涙を堪えることができずうつむいた。

 頬の上を涙が滑り落ちると、鷹巳の指先がすっと雫を拭い去り、離れてゆく。

 温もりが遠のくと、ひどく心細く感じられた。

「正直なところ、わざわざ祇堂に頼み込んでまで、何故この屋敷を守ろうとするのか、私にはあなたの真意が全く判らないのだが。
 二つの屋敷を処分すれば、瀬織家を押し潰そうとしている負債は、かなり軽くなるはず。
 失礼ながら、孝義さんの放蕩ぶりは有名でしたし、あなたが不動産を処分したとしても、誰も不思議には思わないでしょう。
 おそらく、あなたを責める者もいないはず」

 流れるような動作で音も無く立ち上がり、鷹巳が淡々とした声で政子に話かける。

 白熱灯ひとつの薄暗い部屋の中でさえ、鷹巳の存在感は霞むことがない。

 声を荒らげたわけでもないのに、一瞬で、その場の空気がぴんと張りつめる。

 鞘から抜かれた白刃のような威力が、全身から迸っているように見えた。

 背をそびやかした政子は、鷹巳を嘲るように、居丈高な口調で言い放った。

「あなたには判らないかもしれませんが、わたくしには瀬織家を守る義務があります。
 先祖代々受け継がれてきた屋敷を、わたくしの代で失うわけにはいきません。
 孝義の不始末を清算するのは、母であるわたくしの務めです」

「東京の邸宅など、せいぜい百五十年程度のものでしょう。
 違法であり、人倫的にも問題ある手段を使ってまで、守る価値がありますか?
 それに、家督は次男の孝明さんがお継ぎになるようですし、政界に転身されるおつもりでしょう?
 祇堂の力を借りずとも、瀬織家はいずれ潤うのでは?」

 政子の傲慢な態度を気にした風もなく、鷹巳は無表情のまま肩をすくめる。

 慇懃無礼な鷹巳の発言に腹を立てたのか、政子の声がさらにきつく尖った。

「祇堂に依頼したいのは、金銭的な問題だけではありません。
 孝義の恥ずべき風聞が、孝明のクリーンなイメージを損ねることはお判りでしょう。
 孝義の死まつわる噂そのものを消し去っていただきたいのです」

 凍えた冬の月のように硬い態度を崩さなかった鷹巳が、不意に意地の悪い笑みを唇の片端にのせた。

「文部科学大臣が、愛人といちゃつきながら腹上死──ああ、失礼。
 さらに、その愛人というのが孝義さんのご子息で、長年土蔵に監禁されていたなどと知れたなら、前代未聞の大スキャンダルになる。
 孝明さんがいくら高邁な理想を語ったところで、世論の支持は得られないでしょう。
 それに、旧華族の面々はこと醜聞を嫌いますから、確かにこのままでは、昔ながらのつてを頼ることもできなくなりますね」

 瀬織家の一大事を確認するように鷹巳が語ると、政子は顔に緊張を走らせ、ひたと睨みつけた。

「ここだけの話ですが、祇堂家の次期当主であるあなたが、秘密クラブで不健全な遊びをしていると耳にしました。
 あなたも、そんな不愉快な噂が蔓延して、ご自身の立派な評判を傷つけられたくはないでしょう?
 孝明とて、同じことです」

 鷹巳の弱点をあげつらい、嘲弄しながら、政子の目が細められる。

 自分の事を言われる以上に嫌な気分になり、八尋は帯の上から鳩尾を押さえていた。

 一方の鷹巳は怒ることもなく、わずかにうつむいて眼の表情を隠し、軽く頭を下げる。

「大奥様のお耳汚しになっていたとは、お恥ずかしい限り。
 しばらくは真面目に仕事に励みましょう。
 噂になっていると祖父に知れたなら、烈火のごとく怒るでしょうから」

「早くご結婚をなさることです。
 あなたさえよろしければ、わたくしが良いお相手をご紹介いたしますわ」

 殊勝に見える鷹巳の態度に少し気を良くしたのか、政子の声が幾分和らぎ、とりつくろうような笑顔が戻った。

 顔を上げた鷹巳はその言葉には取り合わず、冷静な表情で政子を見返す。

 深い蒼眸は鋭く光り、斬れてしまいそうな迫力があった。

「この件、全てお引き受けいたします。
 こちらとしても、瀬織家との繋がりは、今後も大切にしたい。
 孝明さんが当選された後は、ご協力いただきたい事も数多くありますから」

 動揺を見せない蒼瞳と厳格な鷹巳の声に怯んだのか、政子の背筋がわずかに仰け反った。

「また日を改めて、孝明と一緒に相談しましょう。
 けれど、それよりもまず、この家から八尋の存在を消し去っていただかなければ。
 何もかも、瀬織家には関係ないよう、くれぐれもお願いいたします」

 ただ成り行きを見守るしかなかった八尋は、鷹巳の一瞥が向けられたことに気づき、さっと視線を逸らした。

 初めて出会った時から、片時も忘れないよう、鷹巳の姿を思い描いていた。

 彼の手を取れば、いつかこの生き地獄のような空間から解き放たれ、幸福な世界へと導かれるのではないかと──夜明けに何度も、そんな儚い夢を見る。

 けれど、美しい夢は夢のまま、とっておいた方が良かったのかも知れない。

 夢が叶ったかと思った瞬間、冷たい現実と、おぞましい自分の姿を思い知らされた。

(ああ……鷹巳は、僕の事を知っているんだ──)

 淫らな愛玩物としてここで暮らし、父の最期の時も、共に過ごしていたという事を。