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春耀幻花


<6>



「後の事はどうぞご心配なく。
 さらに言えば、今後、一切の手出しは無用です。
 とはいえ、ひとつだけ──八尋を連れ出す前に、少し話をさせていただいてよろしいですか?
 美しい者ならばいくらでもいるが、私の顧客にとって最も重要なのは内面ともいえる。
 それに、私の不健全な趣味については、すでにお聞き及びでしょう?」

 雷鳴が轟く。

 稲光に照らし出された政子の顔が、夜叉のように恐ろしげに歪んだ。

「土蔵の中でならばお好きになさい。
 ただし、夜明けまでは扉に鍵を掛けますから、あなたも出ることはできませんよ」

「この土蔵に、あなたはずっと、この子を閉じこめていたのですか?」

 静けさが戻ると、当惑に首を傾げている八尋を見つめ、鷹巳がやや呆れたような嘆息をもらした。

 わずかに肩を震わせた政子は、きっちりと着つけられた泥大島の胸元を片手で押さえた。

「八尋を閉じこめたのは孝義です。
 ここで何が行われていたのか──孝義が死んでいるのを見つけるまで、わたくしは何も知らなかったのですから」

「全ては、孝義さんの一存だったと?」

孝義の妾(めかけ)になった桜子は、ここでしばらく暮らし、妊娠しました。
 けれど、桜子が孝義の目を盗んで逃げ出した後、成長した八尋を見つけ出した孝義は、母親と同じようにここに閉じこめました。
 桜子が出ていった事に腹を立てていた孝義は、土蔵の鍵を誰にも渡さず、ずっと自分で管理していたのです」

 逃亡した桜子は、孝義の執念を恐れ、自分の痕跡を社会に残そうとはしなかった。

 孝義はあらゆる手段で桜子の行方を捜索したが、数年に渡って見つけられず、「このままでは俺は終わりだ」と発狂寸前だったという。

 そして、孝義が八尋を見つけ出したきっかけは、桜子が死に際に利用した国民健康保険だったと、政子はまるで他人事のように語った。

「どうして孝義が、あれほど桜子を求めていたのか、わたくしにもよく判りません。
 桜子にどんな魅力があったのか判りませんが、まさかこの子にまで同じ執着を見せるとは思わなかった」

 八尋の祖母は、ひどく疲れたような顔で溜息をついた。

「八尋は、声を出すことができません。
 まともな教育を受けさせていませんから、世間の事もまるで何も知らないのです。
 二十歳は過ぎていますが、頭の中はまだ子供同然。
 もっとも、だからこそあなたがこの子に何をしようと、他人に知られることはないでしょう。
 煮るなり、焼くなり、お好きになさい。
 わたくしはもう、疲れました。
 桜子や八尋のことで、これ以上頭を悩ませたくない。
 だからこそ、祇堂さん、あなたに全てお任せすることにしたのです」

 天井を一度仰いだ政子は、鷹巳の眼を避けるようにして、八尋に向き直った。

「おまえをここまで養ってきたのは瀬織家です。
 いいですか──ここで何があったのか、決して誰にも知らせてはなりません。
 そして今後、おまえが瀬織家に出入りすることは、絶対に許しません」

 政子の言葉の意味を深く考えないまま、八尋は無意識にうなずいていた。

 多分、政子はもう二度と、八尋の顔など見たくないのだ。

 その証拠に、政子の語調は苛烈さを増してゆく。

「祇堂さんが、おまえに相応しい処遇を定めてくれます。
 おまえは恥知らずにも実の父親と交わり、血を分けた父親を殺した。
 淫売の母親から生まれたおまえには、やはり娼婦のような生活がふさわしいのでしょう。
 おまえには、それしかできないのだからね。
 おまえのような化物はいっそのこと、この世から消えてしまえばいい!」

 祖母の憎悪の深さと、残酷な言葉に心を傷つけられ、体温が急に下がるような感覚を味わう。

 自分が誰よりも汚く、忌まわしい存在に思え、吐き気すら感じた。

 堪えきれずに涙を浮かべた八尋は、その涙を隠すように瞼を固く閉ざしたまま、土蔵を出てゆく政子に頭を下げた。




 政子が足早に出ていくと、土蔵の外に控えていた芳沢の手で、木格子の戸口と大扉に鍵が掛けられる。

 顔を上げることもできず、呼吸を止めていた八尋は、鷹巳の足元と畳の上に視線を彷徨わせながら、どうしたものかと思い悩んだ。

 自分から話しかけることができれば良いのだが、こんな時、何を言えばいいのか判らない。

 やっぱり、お天気の話題から始めるべきだろうか?

「凄い嵐になりましたね」……とか?

 深刻な雰囲気にはそぐわないけれど、共通の話題が見つからないのだから仕方がない。

 思い切って顔を上げ、自分を見下ろしている鷹巳を見返した八尋は、口を開きかけた。

 だが、すぐに声が出ないことを思い出し、眉根を寄せる。

 慌てて視線を逸らした八尋は、目に飛び込んできた座布団に手を伸ばし、ここに座るようにと軽く叩いて見せた。

(……話せないのって、こんなに大変だったんだ)

 孝義や芳沢は、自分から話しかけたい相手ではなかったから、不自由は感じつつも、辛くはなかった。

 だが、鷹巳は違う。

 本当は聞きたいことも沢山あるのに、話ができない。

 八尋の不器用な勧めに従い、座布団に腰を下ろした鷹巳をちらりと見ると、彼は、正面に立てられた大きな三面鏡を眺めていた。

 そんなに珍しい鏡なのだろうか? 

 不思議に思い、視線を移した八尋は、ぎくりと身を強張らせた。

 淫らな金屏風の前に座った二人の姿が、鏡の中に映し出されている。

 さらにその向こうには、薄闇の情事へと誘い込むように布団が畳にのべられていた。

 孝義が来ていた頃と同じように、客人をねんごろにもてなせと、瀬織家の使用人が準備していったものだった。

 今思えば、彼らは政子に言いつけられていたのだろうが、恥ずかしくて仕方がない。

(もしかして、僕と、鷹巳が……?)

 艶やかな布団の上に押し倒され、鷹巳の手で、身に纏った着物を引き剥がれてゆく──淫らな想像がふと脳裏を過り、八尋はぱっと視線を逸らした。

 羞恥のあまり、八尋の顔が赤くなっていることに気づいたのか、鷹巳はそのまま視線を巡らせると、高い天井近くにある格子窓と、そこに上るための木梯子を見やった。

「──あの時、おまえはあそこに上っていたのか?」

 鷹巳の視線を追って窓を見上げると、八尋はこくりと頷いた

 話しかけてもらえて、少し緊張が解ける。

 疑問形なら、声が出せない自分でも、首を振って答えることができるから。

(だけど……ちゃんと、話せたらいいのに)

 声が出せない事が、ひどくもどかしい。

 音が出ないわけではないのに、八尋の喉は、人と話す術を忘れてしまっていた。

 雷が鳴るたびに光を放つ格子窓を見上げていた鷹巳は、八尋に目線を戻すと、片手で押さえられた喉元を見つめる。

「話せないのは、生まれつきか?」

 鷹巳の問いにかぶりを振った八尋は、会話が続かないことに困り果て、部屋の隅にある低い文机に視線を向けた。

 あそこには、紙と万年筆が置いてある。

 思いが通じたのか、鷹巳がうなずいた。

 ほっとしながら立ち上がった八尋は、螺鈿細工が施された文机に歩み寄ると、桜模様の一筆箋と、孝義の形見となってしまった万年筆を取り上げた。

『昔はふつうに話せました。
 いつからこうなってしまったのか、覚えていません』

 鷹巳の傍らに戻った八尋は、たどたどしい幼い文字を書く自分を恥ずかしく感じながらも、懸命に文字を連ねた。

「何時からここにいる?」

『小学校の二年生になった頃から』

「瀬織孝義に、連れてこられたのか?」

 鷹巳の瞳を見つめた美輪は、少し躊躇った後、肯定するようにうなずいた。

(どうしてだろう……躰が、温かくなってゆく)

 祖母と話している時よりも着飾った感じのない話し方だが、鷹巳の声はずっと冷静だった。

 それでも、膝を寄せ合うようにして、自分の言葉を書いた紙片を見せていると、躰に温かな血が巡り始める。

 ひとりの声しか響かない奇妙な会話だったが、久しぶりに自分の事を伝えられたからだろうか。

 躰がふわふわしていて、何故だか、急に笑い出したくなる。

 いつの間にか鷹巳の躰と触れ合うところまでにじり寄っていた八尋は、漂う密やかな香りにふと気づいた。