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春耀幻花


<8>



「──そこまでにしておけ」

 冬の木枯らしが吹き込んできたかのような、ぞっとするほど冷たい声が響く。

 八尋にのしかかっていた芳沢が、「あん?」と首を後ろにひねると、その重い躰が突然吹っ飛んだ。

 きつく瞼を閉ざしていた八尋は、はっと息をつめると、後ろ手に縛られたまま不自由な躰の向きを変える。

 見れば、壁際の金屏風に躰ごと突っ込んだ芳沢の上に、戻ってきた鷹巳が身を屈めたところだった。

「や、止めてくれ! 俺じゃない。八尋から誘ってきたんだ!」

 芳沢は口から泡を飛ばしながら叫び、鷹巳から距離を取ろうと床をいざる。

 芳沢の襟首を捕えようとしていた鷹巳は、きつく眉をひそめて八尋を振り返った。

 とんでもない芳沢の言いがかりに真っ青になり、八尋は必死に首を振りたくった。

 冷徹な表情を変えないが、鷹巳が芳沢の言葉を信じてしまったらどうしようと不安になる。

 弁解したくても話せないから、鷹巳が先に視線をそらすまで見つめつづけた。

「信じられなきゃ、テレビを見ろ! 八尋は、どうしようもない淫売なんだよ。
 あんたがぐずぐずして抱いてやらないから、痺れを切らして、俺を誘ってきたんだ。
 こいつは、男なら、誰とでも寝るんだ。
 あんただって、それを確かめるために、ここに残ったんだろうが!」

 芳沢が勝ち誇ったように喚き散らす。

 違うと訴えても、テレビの中の八尋は淫らがましく、あろうことか射精した芳沢の精液を口の中に受け止めていた。

 こんな映像を見せられて、八尋の無実を信じろと言う方がおかしいのかもしれない。

 苦痛に苛まれているのならともかく、性具を抜き挿しされる快感に八尋は喘ぎ、誰の眼にも明らかな絶頂を極めてしまっていたから。

 望まぬ快楽とはいえ、愉悦に蕩けた八尋の唇はだらしなく開かれ、唾液と芳沢の精が混ざり合った汚らしい白濁をたらたらと滴らせている。

 もう、どうにもならない……鷹巳は、芳沢の言う事を信用するだろう。

 テレビの映像を見つめていた鷹巳の視線がつと動き、八尋の顔を撫でる。

 何を考えているのか判らない無表情。

 全身の産毛が逆立つような恐ろしさを感じながらも、目が離せなくなる。

 鷹巳の双眸は、獲物を見出した獣のように青白く光っていた。

 見間違いではなく、内側から炎を灯したようにギラギラと輝いていた。

 そんな鷹巳の変貌には気づかなかったのか、胡坐をかいた芳沢が媚びるように嗤う。

「なあ、判っただろ? 
 旦那様が死んでから、俺がずっと慰めてやってたんだよ。
 今だって、寂しいから抱いてくれって、せがんできたんだぜ」

「手を縛ったのは、どちらの趣味だった?」

 鷹巳が問うと、芳沢は「ひひひ……」と肩を震わせ、下卑た笑い声を立てた。

「八尋は縛られて、嬲られるのが好きなんだ。
 いつも旦那様と二人がかりで攻めてやると、あんな風にイっちまう。
 旦那様の緊縛も悪くはなかったが、俺の方がもっと上手い。
 何なら、今ここで、あんたも試してみるか?
 あんたのお好みの格好に、八尋を縛ってやるぜ」

 ねっとりといやらしい視線を向けてくる芳沢から顔を背け、八尋は悔しさに唇を噛んだ。

 縛られるのが好きだったわけではない。

 ただ、早く終わってほしくて、快感だけに意識を向け続けていたら、いつの間にか八尋の躰はどんな行為にも反応するようになっていた。

 抗えば抗うほど、二人は面白がって八尋を責めたて、結果的に苦痛が長引く。

 気持ち悦い方が、幾分は楽だったから……安息を求めて、快感にしがみついていただけ。

(……もう、嫌だ……もう、どうにでも、なればいい)

 絶望が心に忍び込み、八尋は天井を仰いだ。

 神様は、どこまでも残酷だ。

 八尋の願いを、なにひとつ叶えてはくれない。

 何の望みもない人生なら、いっそ早く、終わらせてくれれば良いのに。

 全てを投げ出したくなった、その時。

 鷹巳の右足が流れるように動き、芳沢の横顔を蹴り飛ばした。

「──ぐわぁッ!」

 潰されたヒキガエルのような声を上げ、大柄な芳沢の躰が側方にひっくり返る。

 一瞬の出来事に呆気にとられ、両目を大きく見開いた八尋の前で、流れる鼻血を押さえながら立ち上がった芳沢が、咆哮を上げて鷹巳に殴りかかった。

 鍛えられた芳沢の腕が、凶器となって襲う。

 紙一重のところですっと身を引いた鷹巳は、勢い余った芳沢の腕を捕えると、わずかに腰を沈めただけの体勢で、大柄な男の肉体を床に反転させた。

 どんと背中から落ちた芳沢が呻く間も無い。

 淡々と作業をこなすような非情さで、転がった芳沢の背中に乗り上げた鷹巳は、つかんだ右腕を背後にねじり上げ、首根に片膝を突き入れた。

「動けば骨が折れる。庭師のおまえにとって、右手は大事な商売道具だろう?」

 脂汗を流しながら、芳沢が血走った眼で睨み付けると、鷹巳は双眸を細めた。

 青白く燃えていた蒼瞳は、元の色に戻っている。

「それとも、必要ないか?」

 あまりにも冷静な声だったから、次に何が起こるのか想像ができなかった。

 止める間も無かった。

 バキリと木の枝が折れたような音が鈍く響き、全身を硬直させた芳沢が、一拍の後に絶叫を放つ。

「ぎゃああぁッ!」

 凄まじい苦鳴に心臓が縮み上がり、八尋は耳を塞ぎたくなったが、手を縛られたままでは何もできなかった。

 押さえ込まれたまま苦しみもがく芳沢を見下ろし、鷹巳の唇が嘲弄するようにつり上がる。

 暴力を、楽しんでいるように見えた。

「八尋を嬲るのは楽しかったか? 
 それなら、貴様をいたぶる私の気持ちもわかるはずだ。
 貴様が情けない声を上げるたびに、心が躍り出す」

 別人にしか見えない残酷さにおののき、八尋が布団の上で思わず後退ると、鷹巳の視線が向けられた。

「八尋──こんな屑は、死んだ方が良いだろう?」

 鷹巳の低い声が、誘惑のごとく甘やかに響く。

 鬼気迫る冷酷な顔は見惚れるほどに秀麗だが、八尋が恋い焦がれた優しい笑顔ではなかった。

(それでも……どうして、こんなに、ドキドキするんだろう)

 怖いから、だろうか。

 怒りや憎しみの感情が鷹巳の眼差しには欠落しているのに、平然と芳沢を傷つける、その無慈悲さが。

 悪魔が憑りついたかのような豹変に怯えているはずなのに、胸の奥では止めどなく思慕が溢れ、苦しいほどだった。

「た、助けてくれ、八尋! 
 ずっと、お前に飯を食わしてやったじゃねえか!」

 けれど、芳沢の叫喚を聞いて、混乱する。

 急に腹立たしい気分になってきた。

 毎日、毎日、芳沢の欲望に奉仕させられ、気持ち悪さと戦っていたのに、こんな風に恩着せがましく言われて。

 それでも、冷え冷えとした殺気を放つ鷹巳の恐ろしい姿を、これ以上見ていられない。

 八尋が大きく首を左右に振ると、超然としていた鷹巳はわずかに双眸を細めた。

「判らないのか? 孝義は死に、おまえが復讐できるのは、この男しか残っていない。
 不当に貶められた恨みを晴らすチャンスだぞ。
 それとも、この男が好きだったのか?」

 好きじゃない。芳沢なんて大嫌いだった。

 それでも、芳沢をこれ以上痛めつけるのは間違っている気がして、八尋は改めて首を横に振る。

 アニメや特撮のヒーローは、いつも弱い人たちの味方だった。

 鷹巳は、八尋を守ってくれたヒーローだけど、勝負はついたのだから、これ以上芳沢と戦わなくてもいい。

 眉間に深く皺を刻んだ鷹巳はふっと息を吐き出し、芳沢を押さえつける力を抜いた。

「それなら……貴様にはしばらくの間、静かにしていてもらおうか」

 脂汗をかいていた芳沢がぎくりとした顔つきで視線を上げる。

 と同時に、目に見えない速さで鷹巳の手刀が振り落とされた。

 首根を打たれた芳沢の躰から、がくりと力が抜ける。

 立ち上がった鷹巳は、ショックで両目を大きく見開いた八尋を見下ろし、どことなくもの憂げな表情で肩をすくめた。

「気絶しただけだ。騒がれるとうるさいからな」