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春耀幻花


<9>



 神様にどんなに祈っても、いつも助けは来なかった。

 拷問のような時間が早く過ぎることだけを願い続けながら、凌辱が終わった後は、動くこともできずに天井を見つめていた。

 けれど、今日は違う。

 同じ事が繰り返されるのかと諦めかけた時、鷹巳が救いの手を差し伸べてくれたのだ。

(そうだ……お礼を、言わなきゃ)

 声には出せなくても感謝を伝えなければと思い、縛られたままの上半身をよじるようにして起こす。

 ふと我が身を見下ろすと、芳沢に乱された着物や襦袢が、腰までまくれ上がっていることに気づいた。

 太腿から下を覆っているのは、足袋だけという酷い有り様。

 金屏風の遊女のようなふしだらな格好になっていることを恥じ、八尋は耳朶まで赤くして膝を閉ざした。

 後ろ手にくくられたままでは、裾を下ろすこともできない。

 動くほどに裾の合わせが大きく崩れ、惨めな姿になってしまう。

 溜息をついた鷹巳が背後に屈みこんでくると、うつむいていた八尋は慌てて逃れようとした。

「じっとしていろ。手を解くだけだ。帯揚げは借りるぞ」

 近づいた鷹巳の躰からふわりと典雅な香りが立ち上っていて、余計に存在を意識してしまい、胸が苦しくなる。

 助けてもらいながら、こんな風にはしたない姿を見られて、泣きたくなった人なんていないだろう。

 できることなら、ここで見たことは全て忘れてほしい。

 八尋のことを忘れてしまっていいから、録画されていた痴態も、こんな惨めな姿も、鷹巳の記憶から消し去ってしまいたい。

 内心では、すぐにこの場から逃げ出したかったが、何とか気にしていない風を装い、無理に笑顔を作る。

 さりげなく着物の裾を直して立ち上がり、八尋は座布団の上に戻ってきちんと正座をした。

 八尋の戒めを取り去った鷹巳は、帯揚げをくるくるとねじって紐状にすると、芳沢の両手首を手際よく縛り上げる。

 骨が折れているなら、意識が戻れば、相当に痛むだろう。

 怒っていたはずなのに、だんだん気絶している芳沢が気の毒になってきて、八尋は一度うつむいた。

 痛くされるのは、嫌だ──苦痛に怯えた躰が強張ってしまい、心まで凍って、どんどん怖くなってしまうから。

(ああ、でも……笑わなきゃだめだ)

 何とか笑顔を取り戻して背筋を伸ばし、芳沢から離れた鷹巳に微笑みかける。

 両手をついて深々と頭を下げると、突然、鷹巳の手が八尋の躰を強く抱き寄せ、肩にかかる黒髪をたぐるようにして顔を仰のかせた。

「八尋、おまえは何故、いつも笑っている?」

 厳しく糾弾するような鷹巳の双眸と視線がぶつかり、息が止まる。

 答えられたなら、どんなに良いだろう。

 どんな苦痛にも耐えようと、必死で声を殺し続けるうちに、いつしか声を失っていた。

 今はもう、せいぜい獣の呻き声のような声しか出せない。

「……ぁ…あ…い……ぁ……お……」

 無様に、喉が鳴った。

 かすれた音が途切れると、鷹巳は髪をつかんでいた指をゆるめ、ひどく困惑しているような表情を瞳に過らせた。

「ありがとう」と言ったつもりだったが、きっと理解できなかったのだろう。

 間近に迫った鷹巳の顔を見つめたまま、八尋は喉を喘がせ、かすれた吐息をもらす唇を震わせた。

 髪から離れた鷹巳の手が流れ、八尋の唇をそっと撫でる。

 芳沢を痛めつけた手と同じとは思えない優しい手つきに、躰の芯が震えた。

「無理に喋ろうとするな。囁くくらいはできるのか?」

 鷹巳を見つめたまま瞬きをした八尋は、わずかに首を傾げ、息を吸い込んだ。

 吐息に乗せて、「ありがとう」ともう一度口を動かしてみると、音色の変わった声にならない囁きが溢れてくる。

 鷹巳にも聞こえたのか、「よくできた」と褒めるように、八尋の頬を撫でてくれた。

 嬉しくなって微笑み返すと、思い悩むように鷹巳は瞼を閉ざした。

「私は、おまえを……どうすれば良いのだろうな」

 激しい衝動を堪えるように眉間に深い皺を刻んだ鷹巳は、ひとつ息を吐いた後で、正面から八尋を見つめた。

「おまえには、身の振り方が決まるまで、しばらくの間、私の傍に留まってもらう。
 さしあたっては、私の婚約者として振る舞ってもらおうか」

 呆気にとられて、八尋は口をぱくぱくと動かしていた。

 学校で勉強をしていないからだろうか。

 鷹巳が何を言っているのか、すぐに理解ができない。

(こんやくしゃって……何?)

 以前、テレビドラマの中で聞いたことがある。

 それとも、「こんにゃく」と聞き間違っただろうか。

 でも、鷹巳の顔は真剣で、こんにゃくの話をしているようには見えない。

 頭の中でぐるぐると堂々巡りをしている八尋には気づかないまま、鷹巳は淡々と話を進めてゆく。

瀬織政子とは交渉済みだが、おまえは今夜、この家を出ることになった。
 移動させるなら、夜の方が人目につかなくて良いと言ったら、考え直したようだ」

 八の字に眉毛が下がってしまった八尋の顔つきを見て、意味が通じていないとようやく察したのか、鷹巳はわずかに双眸を細めた。

「鬼婆が言っていただろう──私が、花嫁を探していると」

 混乱していた思考がついに動きを止め、何も考えられなくなった。

 おろおろして床を見回していると、鷹巳が一筆箋と万年筆を拾ってきてくれる。

 深呼吸を三回繰り返すと、やっと冷静に戻る。

 意思を伝えられるようになり、ほっと安堵しながら、八尋は返事を書いた。

『おうみの、およめさん? でも、ぼくは、男の子ですよ』

 女の格好をさせられてはいるが、自分は男なのだ。

 亡くなった桜子も、「八尋は男の子だから、強いのね」といつも言ってくれていた。

 瀬織孝義や芳沢とは、ちょっと体つきが違っているけれど、母が言った事が正しいのだと思う。

「おまえの出自や戸籍は確認済みだ。
 性別は確かに男だったが、誰から見ても、おまえは女にしか見えない。
 いずれにせよ、さして問題は無いだろう。
 話せないというのも、私にとっては好都合だ。
 おまえは黙って、私の言いつけに従い、私の横で微笑んでいればいい」

 八尋の悩みなど全く問題無いと思っているのか、鷹巳の眼差しには迷いが無い。

 鷹巳が近づくと、香木を燻したような香りをさらに強く感じて、頭の芯が痺れてくる。

 混乱の渦の中に甘い薫香が混ざりこみ、眩暈がしそうだった。

心配するな。婚約者といっても、私たちが本当に結婚するわけではない。
 花嫁修業という名目で、おまえには祇堂家に住み込んでもらう。

 それも一年間限定だ。
 私はおまえを婚約者として……恋人のように扱うから、おまえはそれに合わせていればいい」

 つまり、一年間だけ、鷹巳の恋人のふりをして生活する、ということなのか。

(でも、すぐに嘘だって、バレちゃんじゃないかな?)

 男同士な上に、世間知らずの自分が、鷹巳の恋人にふさわしいとは……たとえ1年間だけだとしても、思えない。

 そもそも、鷹巳はどうして、期間限定で婚約者を必要としているのだろう。

 結婚というのは、愛し合っている人たち同士でするものなのだから、ちゃんとした恋人を見つけ出せばいいのだ。

(ぼくは男の子だから、鷹巳のお嫁さんにはなれないけど……なりたいっていう女の人、いるんじゃないかな)

 テレビを見ていても、鷹巳のように格好良い男はなかなかいない。

 そんな彼に憧れる女性は多いのではないだろうか。

 同性の八尋でさえ、見つめられるとドキドキしてしまうのだから。

 困惑に揺れる八尋の顔を観察していた鷹巳が、口の端を微かに吊り上げ、微笑に似た表情を作る。

可哀想だが、おまえに選択肢は無いぞ、八尋。
 だが、来年の桜が咲く頃まで我慢することができたら、おまえを解放しよう。
 その後は、おまえの後見として、祇堂が生涯バックアップする。
 悪い条件ではないはずだ。
 上手くいけば、来年には自由と、一生不自由をしないだけの金が手に入る」

 ますます訳が判らなくなり、八尋は首を傾げた。

 鷹巳の言葉は、どこか変だと思う。

 まるで、耐えられないような苦難が待ち受けているような言い方だった。