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春耀幻花


<SS1:囚われの蝶>



 たとう紙を開いてゆくたびに、畳の上に鮮やかな色彩が広がった。

 二棹の和箪笥ごと瀬織家から届けられた着物で、十五畳の和室はたちまち足の踏み場が無くなってしまう。

「やっぱり、振袖は華やかでいいわね。
 見ているだけで、気持ちがウキウキしてくるわ」

「どうでもいいけど、これを全部片づけるの、大変だよ。
 見てるだけの母さんは楽しいだろうけど、やたらと広げるから、帯も着物も散らばっちゃって……」

 着物の虫干しと称して、片っ端から着物を取り出している千佳子の声は楽し気だった。

 一方、空になった箪笥の引き出しに掃除機をかけ、濡れ布巾で底板を拭いていた咲耶は呆れ声を上げる。

 いつも八尋の傍にいて、いろいろ世話を焼いてくれる咲耶だったが、この日は半ば強引に、着物の片づけを手伝わされているのだった。

 祇堂家にある衣紋掛けや衣桁を総動員して、長着と長襦袢、帯を順番に干していた八尋は、マスクをつけている咲耶が気の毒になってくる。

 この場にいる唯一の男手だからと、箪笥の移動や掃除を任されていたが、先刻から何度もくしゃみをしているのだ。

「せっかくの晴れ間なんだから、一気に終わらせておかないと逆に面倒でしょう?
 あ、八尋さん。この振袖、ちょっと羽織ってみてくれない?」

 息子の不平をさらりと受け流して、千佳子はにこにこと笑いながら、八尋に一枚の振袖を渡す。

 一向に片づけが進まないのは、千佳子がこうして試着を何度も求めてくるからだった。

 艶やかな紫色の綸子は八尋の瞳と同じ色合いをしていて、京友禅で色とりどりの蝶や四季の花が描かれている。

 裾や袖にはびっしりと刺繍が施され、あまりの豪華さに、八尋も一度くらいしか袖を通したことのない振袖だった。

 こういう優雅な雰囲気は、父、孝義の趣味ではない。

 孝義はもっと派手好きであったのだが、時々、誰が選んだとも知れない着物が秘かに贈られることがあった。

「邪魔になってるの、母さんだから。
 そんなに振袖が着たいなら、自分で着ればいいじゃないか」

「バカねえ。こういう振袖は、若い子が着るから良いのよ。
 年相応って言葉は嫌いだけど、さすがに振袖だけは私も無理よ。
 お肌の艶とか、雰囲気とか……いろいろ、似合わないの」

「理由はそっち? 結婚してるからとかじゃないわけ?」

 親子漫才のような話を聞いて、くすくすと笑っていた八尋は、浴衣の上から長い振袖をまとって千佳子の前に立った。

 千佳子が喜んでくれて、楽しそうにしている姿を見るのは、とても嬉しい。

 幼い頃に逝ってしまった母の記憶は限られていて、思い出す笑顔はリピートし続ける録画のようなものだから。

 母はもういないけれど、千佳子を見ていると、桜子の笑顔が重なって、新しい思い出が作られていくような気がする。

「やっぱり、八尋さんは綺麗ねえ。色白だから、どんな着物でも引き立つわ。
 そうしていると、お花畑の蝶々に負けてないわね」

 パチパチと手を叩く千佳子に微笑みかけ、八尋は両手を広げて、その場でくるりと回って見せた。


「それにしても……着物や帯は沢山あるけど、お洋服は一枚も入ってなかったわね。
 送られてきた荷物はこれだけだったけど、まさか、ずっと着物で生活していたわけじゃないでしょう?」

 その後、一部屋だけでは収まらず、続きの和室にまでずらりと吊り下げられた着物を見回し、千佳子がやや不審げな声音で呟いた。

【洋服、全然着ていないんです。だから、持ってないです】

 会話に使うタブレットで答えると、目を瞠った千佳子にまじまじと見つめられる。

「本当に? ずっと着物だったの?」

 うなずく八尋を見つめ、「まあ」と驚きに口許を押さえた千佳子は、ぐるりと顔を巡らせた。

「確かに着物がよく似合うけど、さすがに毎日ずっとっていうのは不便じゃないかしらね。
 あなたくらいの年頃なら、洋服で遊びに行くことも多いでしょうし。
 遊園地とかショッピングとか……お友達と行ったりしなかったの?」

【友達いなかったから。外にも遊びに行けなかったし】

 千佳子がどのくらい事情を知っているのか判らなかったから、八尋は事実だけを伝えた。

「まあ」と同じ呟きを繰り返した千佳子は、不憫そうに八尋を見つめ、じわりと涙で瞳を潤ませる。

 何を想像したのか、相当哀れな境遇だと感じたのだろう。

「それなら、これからは沢山遊びに行かなきゃね。
 鷹巳さんが帰ってきたら、いろんな場所に連れて行ってもらいなさいな。
 もちろん、咲耶でもいいんだけど――あの子じゃ、ちょっと頼りないかしら」

 千佳子が首を傾げると、廊下に出ていた咲耶が怒ったような声を上げた。

「いい加減に子供扱いするの、止めてくれるかな。
 八尋を連れて外出するくらい、普通にできるでしょ。
 ディズニーランドでもショッピングでも、八尋が行きたい所にお供するよ」

「でも、運転手はちゃんと付けていってね。
 咲耶の運転、怖いから。まだ初心者マークだし、この間、ぶつけたばかりだし」

「それに関しては、まったく言い訳できませんけどね」

 母親の指摘にむっとした様子で、咲耶は水の汚れたバケツを持って廊下を遠ざかったゆく。

 咲耶の足音を探るようにしばらく廊下に視線を向けていた千佳子は、さっと八尋に向き直った。

「それとね……ちょっと気になったんだけど、下着の類も、全然無いのよ。
 鷹巳さんとここに来た時に、一緒に持って来たのかしら?」

 秘密を打ち明けるような、声を潜めた千佳子の物言いに、八尋はきょとんと瞬きをして、首を左右に振る。

【パンツはいてないんです。着物の下には、パンツいらないって、お父さんが言ってたから】

「――あら、まあ!?」

 両手で口許を押さえた千佳子は、その瞬間、完全に固まっているように見えた。



「咲耶――急いで外商を呼んでちょうだい。
 八尋さんのお洋服買うから、似合いそうな夏物、全部持ってくるように言って」

 新しくバケツに水を入れ替えて咲耶が戻ってくるなり、千佳子は険しい顔のまま言いつけた。

「ここの片づけが終わってからでいいじゃないか」

 至極もっともな事を咲耶が口にすると、千佳子は急ににっこりと笑顔になって、傍にいた八尋の肩を抱き寄せる。

「八尋さん、お洋服、一枚も持ってないんですって。
 いくらなんでも、それじゃあ不便でしょう?
 着物でお出かけすると、試着するのが大変だから、まずは持ってきてもらう方がいいわ」

「向こうは八尋の事、何も知らないのに?」

「それを説明するのが、あなたの責任でしょ?
 鷹巳さんから、八尋さんの事お願いされてるんだから」

 断固とした母親の主張に、咲耶が「やれやれ」と天井を仰ぐと、千佳子ははたと気づいたように頬に手を当てた。

「……あ。でも、やっぱりいいわ。
 咲耶はこのまま、着物を片づけてちょうだい。
 あと二時間くらいしたら取り込んで、新しいたとう紙に入れ直してね」

「僕ひとりで?」

「女の買い物には時間がかかるのよ。
 初めてだろうから、八尋さんには私が付いていてあげなきゃいけないだろうし。
 大変だったら、大竹さんに手伝ってもらうといいわ」

 困惑気味な咲耶と八尋にはお構いなしで、マイペースに話を進める千佳子は、早速帯からスマートフォンを取り出して電話をかけ始める。

 一度電話を切って、カメラで八尋の全身写真を撮り、さらに浴衣の上からメジャーで寸法を測りだした。

 その後、パタパタと足音を響かせて和室から出て行った千佳子を見送り、取り残された八尋と咲耶は思わず顔を見合わせた。

「母さん、張り切ってるなあ。
 素直に言う事を聞いておいた方がいいかもね。
 ああなると、何を言っても無駄だから」

【下着が無いって言ったら、千佳子さん、怒っちゃったみたいで。
 そんなに変な事だったのかな?】

 苦笑をもらす咲耶にタブレットで話しかけた八尋は、片手で浴衣の裾を少し持ち上げてみる。

 長らく当たり前になっていて、不自然さすら感じなくなっていたが、日常的に着物を着ている千佳子があれほど動揺するのだから、奇妙なことなのかもしれない。

「それは、なかなか刺激的な事で……。
 気づかなかった僕も迂闊だけど、鷹巳さん、何も言ってなかった?」

「うん」と八尋が頷くと、咲耶は微笑をさらに歪めてにんまりと目を細めた。

「抜けてるんだか、確信犯なんだか判らないところが、胡散臭いよねえ。
 それはともかく、着物でパンツを履かなかったというのは大昔の話で、今はみんな普通に履いてるよ。
 着物に響くのが嫌なら、Tバックにしてもらえばいい」

『……てぃーばっく?』

 囁きだけで聞き返すと、咲耶はにっこりと頷いた。

「デパートの人に言えば、追加で持ってきてもらえるから。
 普通のより、きっと鷹巳さんも喜んでくれるよ」



【普通のでいいです】

 結局、咲耶の言うTバックは買えなかった。

 布地の少ない、ほとんど紐状のそれは刺激が強すぎて、見せてもらったものの、とっさに拒否してしまった。

 お尻がほとんど丸見えになりそうだし、自分が履いている姿を想像すると恥ずかしすぎる。

「お着物をお召しになることが多いのであれば、こちらなどいかがでしょう?」

 デパートの外商担当員が薦めてくれたのは、レースが使われているピンク色の可憐なもので、Tバックにはあまり良い顔をしなかった千佳子も喜んでくれた。

「年頃の女の子なんだから、これくらい可愛くてもいいんじゃない?」

 本音を言えば、もっと飾り気の無いシンプルな下着が良かったのだが――。

 というより、女の子ではなく本当は男なのだから、幼い頃に母が買ってきてくれた白いパンツで事足りるのではないだろうか?

 だが、千佳子の言う通りにした方がいいと言っていた咲耶の言葉を思い出し、躊躇いつつも八尋は頷いた。

 何だか、とてつもなく恥ずかしい。

 鷹巳に見られたらと思うと顔が火照ってくるが、考えてみれば、何も履いていない方がずっと恥ずかしい事だったに違いない。

 とはいえ、ブラジャーまではさすがに身に着ける気にならず、パンティとお揃いになっているものを見せられても、八尋は首を横に振った。

 肉付きの薄い自分の胸には必要を感じなかったし、乳房を寄せて上げると言われても、羞恥と違和感しかない。

「洋服の時は、カップ付のキャミソールやタンクトップでいいわね。
 着物の時は、肌襦袢があるから大丈夫だし」

 わずかに怪訝な面持ちをしている外商員に、千佳子が対応してくれなければ、きっとさらに恥ずかしい思いをすることになっただろう。

(……女の子って、難しいな)

 世の中の女性は、下着にいろいろ気を遣っているのだと思い知り、八尋は溜息をつきそうになった。



 だが――。

 実際に裾を大きくまくられ、性器を覆い隠す下着を露わにされるのは、想像していた以上の恥ずかしさだった。

 興奮して盛り上がった男根の存在を指摘されることも……布地越しに愛撫され、次第に内側へと侵入する鷹巳の手を感じることも……。

 奥に秘められた花芯が、感じ過ぎてふしだらな蜜を溢れさせ、薄布をぐちゃぐちゃに濡らしてしまっていることを揶揄されるのは、全身から火が出るほど恥ずかしかった。

 見せてはならぬものを見られる屈辱が、淫靡な羞恥心を煽り、身悶えするような思いを強いる。

 蜘蛛の巣のように緻密に張り巡らされた罠に捕らわれ、自ら我が身を差し出して、どこまでも堕ちてゆく。

 こんな恥ずかしい気持ちに苛まれるくらいなら、いっそ何も考えられなくなるほど、この身をめちゃくちゃにして欲しいと望むほどに――。



「八尋さん? どうしたの、ぼうっとして?」

 清々しい真夏の早朝、まだ涼しいうちに赤く染まったトマトを籠に収穫していた八尋は、千佳子の声ではっと我に返った。

 ぼんやり立ち尽くして蝉の声を聞いているうちに、いつの間にか心が離れ、生々しく鮮烈な夜の記憶に囚われていた。

 慌てて振り返ると、身にまとう真っ白なワンピースの裾が軽やかに揺れる。

 強い風が吹き抜けた拍子に、頭に被っていた麦わら帽子も飛んでいきそうになった。

 片手で帽子を押さえていると、木立の間から抜け出してきた大きな黒揚羽が一頭、咲き乱れる花の上をひらひらと舞い始める。

 千佳子の手入れが行き届いた花壇や野菜畑に、獲物を狙う蜘蛛の巣はひとつもない。

 儚い蝶に訪れた束の間の平和。

 気ままな蝶の行方を目線で追った八尋は、心配する千佳子に、「何でもない」と明るく微笑みかけた。






〜〜Mariaよりコメント〜〜

 というわけで、いつも感想を送ってくださる皆様に、ささやかながらのプレゼントです♪
 書きたかったけど、泣く泣く?削ったシーンをSSにしてみました(笑)。
 あんまり盛り上がりはないんですけれどね。
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