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「せんせぇ〜、さよ〜なら〜」

「さようなら、俊典くん、また明日ね」

 にこにこと明るく笑いながら、幼稚園教諭の室井悠利(ムロイ ユウリ)は、母親に手を引かれて帰っていく園児を見送った。

(はあ〜、今日もみんな元気で、無事にお家に帰れたな〜)

 いつもより母親のお迎えが遅くなってしまい、心細くて先ほどまで泣いていた子供の顔を思い出した悠利は、ふうっと大きなため息をついた。

「……さてと、片づけをして──」

 交互に肩を大きく回しながら教室に戻った悠利は、本棚の前に座り込んでいる少女の姿を認めると、思わず「あっ」と声を出していた。

 緩やかなウェーブがかった栗色の髪を、綺麗なベルベットのリボンで頭の両サイドで結んでいる少女は、その声を聞いて小さな白い顔を上げた。

 成長すればどれほどの美女になるだろうと今から楽しみになるほど、幼いながらもその子の美貌は群を抜いている。

 長い睫毛に囲まれた鳶色の瞳は驚くほど大きく、形の良い鼻や唇とのバランスも完璧だった。

 少女は、思わず怯みそうになるほどじっと悠利を見つめると、小首を傾げてにっこりと笑った。

「ゆーりせんせー、また、るかのこと、忘れてたでしょ」

「そ、そんな事ないよ──でも、琉花ちゃん、びっくりするぐらい静かだよね」

 ははは……とわざとらしく笑いながら、悠利は視線を天井に彷徨わせた。

 この鷲塚琉花(ワシヅカ ルカ)という園児を、悠利は何故か非常に苦手にしていた。

 他の園児に比べると、異常なぐらいに頭の回転が速く、物覚えも良く、記憶力も抜群である。

 一度言った事は、悠利自身が忘れていても琉花はしっかり覚えていて、時々とてつもなく鋭い突っ込みを入れてくるのだ。

 産休を取った先生の代わりに、先月から臨時職員としてこの幼稚園で働き始めた悠利にとって、琉花はどの園児よりも脅威的存在であった。

 室井悠利23歳、鷲塚琉花5歳──18歳もの年の差で、迫力負けを感じる自分が情け無い。

(琉花ちゃんママは、おっとりほんわかだから全然平気なのに、どうしてこの子には苦手意識を感じるんだか……)

 琉花の母親である鷲塚零は、悠利よりもわずかに年上なのだろうが、その奇跡的な美しさといったら、思わず呆然と見惚れて動けなくなるほどであった。

 琉花よりも淡い亜麻色の髪とセピア色の瞳が柔らかな印象を際だたせ、「よろしくお願いします」と優しく微笑んだ笑顔はまるで天使のよう──初めて見た時は白い光に包まれているのではないかと錯覚しそうなほど、零にはピュアな雰囲気があった。

 しかし琉花は、確実に零の血を受け継ぎ、その美貌は明らかに母親譲りだというのに、天使というよりは小悪魔に見える方が多い。

 気は強いし、口は達者だし、何故か男の子よりも喧嘩が強い──つまり、必然的にこのクラスのボス的存在になってしまっている。

(いい子なんだけどね……どうも、普通の子と違うような──)

 そもそも子供の個性に対して、枠に嵌めるような考え方をしてはいけないのだろうが、琉花の個性は標準的な枠に全然はまりきらず、悠利は戸惑ってしまうのだった。

(琉花ちゃんのパパは、大きな会社の社長だか代表だかだって、園長先生が言ってたな。
 たくさん寄付金をくれるらしいけど……会った事はまだ一度も無いや)

 琉花の性格は、母親よりも父親に似ているのかもしれない。

 そう思い、悠利は小さくため息をついた。



 琉花は本棚の前に座り込んだまま、ずっと一人で本を読んでいる。

 最初は絵本を見ているのかと思っていた悠利は、上から覗き込んだ途端、それが小学生向けに書かれた児童文学であることに気づいた。

 大人から見れば簡単なものだが、まだろくに読み書きもできない幼稚園児が読むにはちょっと難しすぎる。

「……琉花ちゃん、そのご本、どうしたの?」

 果たして本当に読めているのだろうかと訝しみつつ、悠利は恐る恐る訊ねてみた。

「これ? これはねえ、シショーに買ってもらったの。
 『強くなりたかったら、まずは頭をきたえろ──頭をきたえたかったら、まずは言葉を覚えろ』なんだって」

「シショーとは何ぞや?」という疑問が悠利の頭の中を駆けめぐったが、その言葉の内容に驚いてしまい、思わず呆然としてしまった。

(──強くなりたかったら? でも、琉花ちゃん、女の子なんだけど……)

 今の時代、女性だって強く、逞しく生きて行かねばならない。
 だが頭では判っていても、まさか5歳の幼女にそんな教育をする親がいるとは思えなくて、悠利の頭の中は疑問符だらけになってしまった。

「……琉花ちゃん、強くなって、何をしたいの?」

 今だってクラスの中では一番強い琉花が、さらに強くなってどうしようというのか?

 素朴な疑問がそのまま口から飛び出し、我に返った途端に悠利は慌ててしまった。

「るかは強くなって、ママを守ってあげるの。
 パパがいる時はいいんだけど、いない時のママって、ほんとにあぶないんだから。
 お買いものに行っても、いろ〜んな人から声をかけられちゃって……。
 変なムシがつかないように、よくみておけってシショーにも言われちゃったし──」

 これが、5歳の子供が話す言葉だろうか──?

 呆然から愕然に突入した悠利は、にこにこと嬉しそうに笑っている琉花の可憐な顔を、穴があくほどに見つめてしまった。

 幼い娘の身の危険を心配する母親というのは、世界中どこに行ってもみられるだろう。
 だが、5歳の娘に心配される母親というのは……あまりいないかもしれない。

 ふと、悠利は園内で遊ぶ子供達の様子を思い出した。

 クラスで一番暴れん坊の高島謙(タカシマ ケン)君も、琉花にだけは頭が上がらず、どこか怖れているような雰囲気がある。

 しかし苛められっ子たちは琉花の事を非常に頼りにしているようで、何かあるたびに「るかちゃ〜ん」と助けを求めに行くjのだった。

 琉花は、相手が年上クラスの暴れん坊たちだって怯まない。

 本当に信じられないぐらいに怖いもの知らずで──あわや乱闘という時点で止めに入った悠利は、琉花の度胸の良さを少し羨ましいと思った。

 自分にもあれぐらいの度胸と強さがあれば、きっと違う人生を歩めていた事だろう。

 苛められる事も、卑屈になる事も無く──。

 自分自身に自信を持って、言いたい事をはっきり言えるような人に憧れる悠利は、自分の現状との隔たりを痛感し、思わずため息をもらしていた。