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「──琉花っ! 危ない!」

 青になった途端、だだだ〜っと走り出した琉花を見て、零が悲鳴のような声を上げて名前を叫んでいた。

「せんせー! ゆーりせんせー!」

 もう少しで手が届く──そこまで来た時、急に悠利の身体が頽れた。

 慌てて悠利の傍らに駆け寄った琉花は、大好きな先生の身体が氷のように冷たい事に気づき、後ろを振り返って大声で叫んだ。

「ママー! 早く、早く! せんせー、すっごくつめたいの!」

「琉花っ! 飛び出したら危ないでしょう!」

 横断歩道があるとは言え、暗い夜道をろくに左右確認しないまま飛び出した琉花を見て、心臓が止まるほどショックを受けていた零は、珍しく娘に対して大声を上げた。

 しかし倒れている悠利を認め、慌ててその身体を抱き起こす。

「室井先生! 大丈夫ですか──しっかりして!」

「せんせ〜、死んじゃやだー」

「琉花ちゃん! 変なこと言わないで!」

 母娘共々大騒ぎをしていた二人は、頭上から不機嫌極まりない低音が振ってきた時、はたっと顔を見合わせ、ほとんど同時に上を見た。

「おまえら……二人そろってバカか?
 勝手に飛び出して、車に轢かれたらどうする!」

 怒りに満ちた鷲塚の声に、零はきゃっと首をすくめ──そして琉花は、平然と父親を見上げたのだった。

「でも、ひかれなかったもん」

「──何だと?」

 娘の言葉に、ぴくりと鷲塚の片眉がつり上がった。

 普通の人間であれば、さらにそれが極道であっても震え上がるような表情ではあったが、さすがに毎日見慣れているだけあって、琉花はやはり平然としていた。

「だから、ひかれなかったって言ってるでしょ?
 そんなことより、早く、せんせーをはこばなきゃ。
 ママじゃむりだから、パパがせんせーをだっこするの」

 この状況で一番冷静な対応をしたのは、まだ5歳になったばかりの琉花で、彼女の両親はお互いに顔を見合わせてしまったのであった。



 どこかで、温かくて優しい、慈愛に満ちた声がする。

(──大丈夫。もう大丈夫だからね……心配しないで……)

 凍えてしまった心に、その声はじんわりと浸透するように広がり、悠利は夢の中でその人に向かって手を差し伸べた。

(……助けて──僕を助けて……壊れてしまいそうな、僕の心を……)

 温かく柔らかな手に包み込まれ、握り返された途端、また涙がこぼれだした。

 自分はいつからこんなに泣き虫になってしまったのだろう。

 昔から絶対に泣かないようにしようと決めていたというのに、まるでダムの堤防が壊れたような勢いで涙が溢れ出す。

(この夢が終わったら、またあの寒い場所に戻るのだろうか……)

 握られていた手が離れていく──その温もりを失うのが怖くて、悠利はもう一度手を伸ばしていた。

 すると、今度はもっと小さな、それでも温かい手が強く握り返してきた。

(──ここにいるよ……は、ここにいるよ。だから、安心して……)

 壊れてバラバラになりそうな心を繋ぎ止め、支えるように、その小さな声が励ましている。

(……僕は、一人ぼっちになりたくない──)

(ひとりじゃないよ──るかも、ママもパパもいっしょにいるから。
 みんなも、ゆーりせんせーのこと、大好きだもん……せんせー、さびしくないよ)

 先ほどよりもはっきりと聞こえてきた言葉に、悠利の意識は揺り動かされ、涙で濡れていた長い睫毛を震わせた。

「……る…か──琉花……ちゃん?」

「そーだよ、るかだよ。せんせー、おめめ、覚めた?」

 その声に促されるようにゆっくりと瞼を開くと、目の前に少し気の強そうな、ビスクドールのように美しい琉花の顔が見えた。

 大きな鳶色の瞳一杯に涙をたたえた琉花は、一度瞬きをすると、小さな手でそっと悠利の頬に触れてきた。

「せんせー、あったかくなったね。ずっと冷たかったから、るか、心配しちゃった」

「琉花ちゃん……ここは……どこ?」

 見覚えの無い天井──閉じこめられていたあの部屋とも違う。

 不安にかられ、そう訊ねていた悠利を見つめ、琉花はにこりと笑った。

「ここ、るかのおうち。今、ママをよんでくるね。
 ママもパパも、せんせーのこと、ず〜っと心配してたんだから」

 そう言って、琉花はパタパタと足音を響かせながら、部屋を飛び出していった。

「ママ〜、ゆーりせんせー、おめめ覚めたよ〜!」

 部屋の向こうで琉花の叫び声が聞こえ、悠利は思わず口許をほころばせていた。

(でも──どうして、僕は琉花ちゃんの家に……?)

 記憶を探ろうとしていると、不意に鋭い頭痛を感じて、悠利は眉根を寄せた。

 ホテルから逃げだし、夜の町を彷徨って……そして──川を見つめていた。

 そこからの記憶は一切無い。

 記憶に残っているのは、優しく包み込むような美しい声だけ──。

「良かった、気が付きましたね。みんなで心配していたんですよ」

 ふわりと漂った優しい香りと共に、その声の持ち主が近づき、悠利の顔を覗き込んだ。

 淡い亜麻色の髪と、懐かしさを覚えるようなセピア色の瞳、そして神様から愛されている証のような繊細で優美な天使を思わせる美貌。

「……零…さん? ずっと…大丈夫だって……励ましてくれたのは──?」

「聞こえてましたか? ごめんなさい、他に何て言ってあげたらいいのか判らなくて……」

 ベッドの枕元に置いてあった椅子に座った零は、首を傾げて微笑み、熱を確かめようとするように悠利の額に手を伸ばした。

 触れた手から本当に優しい思いやりに満ちた思いが伝わってくるような気がして、悠利は溢れ出してくる涙を隠すように目を閉じた。

「あの……ありがとうございます──僕を、助けてくれて……」

「実を言うと、室井先生を最初に発見したのは琉花なんです。
 だから、お礼なら琉花に言ってあげてください。
 あの子、室井先生のこと大好きみたいで、帰ってからずーっと付きっきりだったんです。
 先生が目を覚ますまで、傍についていてあげるんだって」

 指先で悠利の前髪を梳いた零は、その後、布団の外に出ていた手にそっと掌を重ねた。

「体調が良くなるまで、ここでゆっくり休んでいってくださいね。
 今、無理をすると、本当に身体を壊しちゃいますから」

「でも……それじゃ、ご迷惑になりますから──」

 幼稚園の先生であるとは言え、プライベートでは何の関わり合いもない自分を家に連れ帰り、看病してくれただけでも、十分過ぎるほどの好意なのだ。

 これ以上甘えるわけにはいかない──この優しい手にすがってしまえば、自分はきっともっと、もっと甘えたくなって、一人でいることがさらに怖くなってしまうだろう。

 それほどに、この手は温かい。

 無償の愛を注ぐ慈しみ深い母親というのは、誰もがこんなに温かい手をしているのだろうか。

(──僕のお母さんの手は……こんなに優しかっただろうか──?)

 閉ざしていた瞼の間から、すうっと悲しみに満ちた涙が滑り落ちた。