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 悠利の目から溢れ出した涙を見つめた零は、誰もが切なくなるほど哀しげで透明な微笑みを浮かべると、労るようにゆったりとした口調で悠利に話しかけた。

「ねえ、先生、どうかそんな心配はしないでください。
 こちらこそ琉花がいつもお世話になっているんですから──困った時はお互い様って言うでしょう?
 それに、琉花が見つけなければ、私たちだって先生に気づかなかったかもしれないんです。
 でも、たまたまあの場所で琉花が先生を見つけた──だから、これも何かの縁です」

 驚いたように双眸を見開いた悠利に、零はにこりと明るく笑いかけると、ぽんぽんと軽く悠利の手を叩いた。

「とにかく、先生には早く元気になってもらわなくちゃ。
 でないと、琉花が大騒ぎしちゃいますからね。
 ──あ、何か食べられそうですか?
 お医者さんは、胃腸に負担のならないものなら大丈夫だって仰ってたけど、無理して食べさせるのは良くないって……。
 お粥とか、おじやとかなら食べられるかな?」

 いかにも柔らかそうな唇に人差し指をつけて考え込む零の姿は、微笑ましくなるほど無邪気に見え、そして可愛らしくもある。

(……何だか、ダンナさんがこの人を溺愛する気持ちが、判る気がするな)

 零を見つめているうちに微笑みを誘われ、悠利は唇を少しほころばせていた。

 あの悪魔のように残酷な東山でさえ、零の存在は「癒し」なのだと言っていた。

 零の微笑みを見ていると、穢れてしまった魂が、ふっと無垢だった頃の事を思い出すような感覚がある──それゆえに欲しいと思った……と。

 ところが、その思いを確信した時には、すでに零は手の届かない場所へ行ってしまっていた。

 死力を尽くして戦ってもおそらく勝てないであろう男が、他の男たちがその事に気づく前に、あっという間に彼女を連れ去ってしまった。

 奪う事も、触れることすらも許されない──だが、だからこそ余計に欲しくなる。

「もし、零ちゃんを今の君のように組み敷いて、思う存分に抱くことはできたら、その時は死んでもいいとさえ思うかもしれないな。
 あの綺麗な顔が快楽に歪む様を見るのは、壮絶な快感だろうからね。
 でも一方で、零ちゃんにはずっと優しく笑っていてほしいとも思うんだ。
 矛盾だな──だが、だからこそ彼女は、みんなから愛されるんだろうけれどね」

 おしめを代える赤ん坊のような格好にさせられた悠利は、自分の後孔を犯している男が語る言葉を、屈辱的な快感の中で聞いていた。

 苦しげに顔を歪める自分から目を逸らさず、じっと見つめながらも、彼の視線はどこか遠くを見ているような気がして、何故か心が余計に痛んだ。

 彼が本当に望んでいるのは零で、自分はその身代わり──いや、それどころかオモチャ程度の価値しかないのかもしれない。

 彼にとって自分は、たまたま目に留まっただけの存在でしかなく、からかってみたら面白いぐらいに思われたのだろう。

 と、不意に耳元で囁く東山の声を思い出し、背筋にぞくりと痺れが走った。

『悠利──君はもう、私から逃げられない。
 君は私の可愛い奴隷になったんだからね』

 身体を征服され、隅々まで支配されているというのに、屈辱感と共に甘美な快感に襲われ、悠利は泣きながら彼の望み通りに振る舞った。

 自分の痴態が脳裡に蘇り、その記憶を正視できなくなった悠利は、頭からすっぽりと布団を被ってしまうと、全てを頭の外に追い出そうとしてぎゅっと両目をつぶった。



 悠利を寝かせている客間から出た零は、パタンとドアを静かに閉めると、ふうっと大きく息を吐き出した。

(──何があったのか先生に聞くわけにもいかないし……。
 困ったな……薫さんは傷害罪で相手を訴えさせろって言ってたけど──)

 凍えきっていた悠利を自宅に運び、急いで薫に往診に来てもらった。

 そこまでは良かったのだが、悠利が着ていたサイズの合わない大きすぎる衣服を、3人がかりで(実際に着替えさせたのは薫と鷲塚で、零はほとんど何もさせてもらえなかったのだが)暖かいパジャマに着替えさせた時からが大騒ぎだった。

 小柄で細身の悠利の身体に残る無数のキスマークや、何かロープのようなもので縛られた痕を見つけた途端、薫の目がすっと細められた。

「──ねえ、この先生、誰かにレイプされたんじゃないの?」

 鷲塚は無言だったが、零は愕然として聞き返してしまった。

「レイプって……悠利先生、可愛い顔してるけど、男の人ですよ?」

「お〜い、零ちゃ〜ん、ゴーカンされるのは女ばかりとは限らないでしょ?
 男が好きな男は山ほどいる……かどうかは判らないけど存在するし、制裁が目的で犯されちゃう場合だってあるんだからさ。
 極道の若いモンが壁ん中入った時なんて、結構大変なんだから。
 目上に命じられたら、嫌でもオカマ差し出さなきゃいけない場合だって──」

「──薫、無駄話はいいから、さっさと治療しろ!」

 呆気にとられている零に滔々と説明し出しそうな気配を感じ取り、鷲塚が薫の話を途中で強引に遮った。

「判ってるわよ、もう──ほんっとに、うるさいんだから。
 とにかく、この可愛い先生が、どこかの誰かみたいな鬼畜野郎に監禁されて、無理矢理強姦されたんだったら、このまま放っておくわけにはいかないわよね。
 もしそいつがストーカーとかだったら、放っておくと、また繰り返しになるかもしれないし。
 酷い傷はないし、倒れたのは過労と心労のせいだろうけど──トラウマになっちゃうかもしれないから、十分なメンタルケアが必要になるでしょうねえ」

 所々の語気が強く、皮肉っぽかったのは気のせいだろうか?

 それが少し気にはなったが、それ以上に悠利の事が心配でたまらなくなった零は、何かに苦しむような表情で眠っている悠利を見つめた。

「これが原因で悠利先生が幼稚園を辞めてしまったら、琉花や他の子たちも寂しがってしまうと思うんです。
 最近、琉花は幼稚園に行くのが凄く楽しいみたいで。
 悠利先生も、ずっと保育士になりたかったんだって、この間ちらっと言っていたから、こんな目に遭って辞めてしまうというのは、もの凄く辛い事だろうし……」

 悠利に点滴をしながら、薫は重々しくため息をついて見せた。

「──とにかく、相手が誰なのか判れば、相応に対処できると思うんだけどね。
 この子が着ていた服、多分、そいつの物なんだと思うの。
 シャツもズボンもお高いブランド物だから、その辺のサラリーマンじゃないのは確かね。
 まあ、こんな鬼畜な真似を平気でするヤツだから、大金持ちの変態オヤジか、どこぞの組の極道か……あ、もしかしたら海琉の知り合いって可能性は高いかも。
 ほら、類は友を呼ぶって──」

 最後ににんまりと意地悪く笑った薫を、鷲塚が絶対零度近くまで冷えた眼差しで睨んだ。

「あの幼稚園の関係者、あるいは園児の身内か、その関係者という線もあるがな。
 いずれにしても琉花の周囲で起こった事件だから、こちらに影響があるかどうかも含めて調べさせる。
 組関係の人間の仕業なら──」

 両腕を組んだ鷲塚は、不機嫌そうな鋼色の瞳で悠利を見下ろした。

「きっちり落とし前をつけさせるって?
 そうよねえ、平穏でラブラブな鷲塚家の日常が乱されちゃったわけだから。
 でも、誰に調べさせるの──東山さん?」

 くすくすと笑った薫が訊ねると、鷲塚は少し考えた末に、首を横に振った。

「いや、新堂にやらせる。
 あいつは何回も琉花を送迎しているから、うろついていても不審に思われないだろう。
 子供の事がからむと、とかく身内は警戒しやすいからな。
 全く見知らぬ人間よりは、新堂にやらせる方が、関係者の口も軽くなるはずだ」

「まあ、本人が喋ってくれるのが一番手っ取り早いんだけど、こういう事件の場合、口止めされてる場合も多いし、喋りたがらない事も多いから……。
 とりあえず、彼が目覚めてもそっとしておいて──強引に口を割らそうなんて考えないでよ」

 鷲塚の胸にぴっと人差し指を突きつけた後、薫は心配そうに顔を曇らせていた零ににっこりと笑いかけた。

「じゃあ、後は零ちゃんに任せたからね。
 ちょっと大きくなりすぎてるけど、自分の息子だと思って優しく看病してやって。
 もし何かあったらケイタイに電話してちょうだい」

 茶目っ気たっぷりにウィンクをしてみせた薫は、何故か不機嫌そうに眉をひそめた鷲塚に笑みを含んだ流し目を向け、慌ただしく帰って行った。