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 白い湯気を立ち上らせる鍋を下ろし、最後に味見をしていた零は、不意にくいくいっとセーターの裾を引っ張られた。

「ねえ、ママ……ゆーりせんせー、だいじょーぶ?」

 幼い顔一杯に心配げな表情を浮かべた琉花は、不安を我慢するかのようにきゅっと唇を噛んでいた。

「大丈夫だよ、琉花、心配しないで。
 悠利先生はすぐに元気になって、また幼稚園で琉花と一緒に遊んでくれるからね」

 床に膝をつき、琉花と目線を合わせて微笑んだ零は、こくりと小さくうなずいた娘の身体を腕の中に抱き寄せた。

「あのね……せんせー、『助けて、助けて……一人にしないで』って、ずっと言ってたの。
 ゆーりせんせー、だれかにすっごくいじめられたの?
 せんせー、かわいそうだよ──るか、せんせーいじめたヤツ見つけたら、ぜったいにオトシマエつけてやるんだから」

 琉花が使った「落とし前」という言葉に一瞬戸惑いを感じたが、今はそんな事に拘っている場合では無いと思い直し、零は柔らかな栗色の髪を撫でた。

「そうだね、先生、可哀想だよね。
 ねえ、琉花──先生は『一人にしないで、寂しいよ』って言ってたでしょう?
 琉花が傍にいてあげたら、先生、寂しくなくなるんじゃないかな?」

 零の言葉を聞いた琉花は、ぱちぱちと長い睫毛に縁取られた瞳を瞬かせた。

「るかがずっと一緒にいてあげたら、ゆーりせんせー、さびしくない?」

「琉花が慰めてあげたら、きっと先生は元気になるよ。
 ママもいるから、一緒に先生を励ましてあげようね」

「うん、ママも一緒だね。
 るかは、せんせーをはげましてあげます!」

 元気良く宣言した琉花は、立ち上がった零の周りをぴょんぴょんと飛び回った。

「さ〜て、出来上がり。琉花ちゃんは先生と一緒に、お粥を食べますか?」

 琉花を預けていた鎌倉の屋敷で夕飯は済ませていたのだが、零はそう聞いてみた。

「はーい、食べまーす!
 あのね、るか、せんせーの事しんぱいしてたら、ちょっとおなかすいちゃったの」

 嬉しそうに笑った琉花は、少しませた口調でそう言い添えた。




 とろとろに煮込まれたお粥を口に運んだ悠利は、ほっとするような温かさが身体中に染み渡るのを感じた。

「……おいしい」

 ぽつんと思わず呟きがもれると、ベッドの傍で一緒に食べていた琉花が、嬉しそうな顔でにこにこと笑った。

「ママはお料理、とっても上手なんだよ。
 だから、るか、好き嫌いないんだもん──それに、ピーマン嫌いって言うと、パパがおこるの。
 でもパパが『甘いの嫌い』っていっても、ママはおこらないの。
 だからるかが『好き嫌い言っちゃいけません』っておこるんだけど、『大人はいいんだ』ってパパは言うの。
 パパ、ずるいでしょ?
 ママは笑ってるけど……好き嫌いはダメっておこらなきゃダメだよねえ」

 琉花のお喋りを聞いていた零が、困ったように首を傾げて苦笑をしていた。

 暖かな眼差しは愛情に満ち、その柔らかなセピアの瞳にはふっと郷愁を誘うような慈愛の光が宿っている。

(──帰りたい……でも──どこへ?)

 叶うならば、心安らぐ平穏な場所へ帰りたい──孤独に疲れた心がそう願ってしまう。

 だが、そんな場所がいったいどこにあると言うのだろう。

 悠利の食事をする手が止まっている事に気づいたのか、零が心配そうに声をかけてきた。

「悠利先生、もし気持ち悪くなってしまったら、無理に食べないでくださいね」

「あ……いえ、そんな事ないです。
 本当に凄く美味しくて──何だか、食べきってしまうのがもったいなくて……」

 鳥の挽肉と卵、柔らかなレタスを豆乳で煮込んだお粥は、スープの中にほのかな甘みがあって、その味が何故か泣きたくなるほど美味しく感じた。

 子供の頃、風邪を引いてどんなに高熱を出していても、お粥やおじやを作って悠利を看病してくれる人はいなかった。

 叔父は料理をするような人ではなかったし、義理の叔母は悠利にはほとんど関心を寄せず、むしろその存在を疎んでいた。

 それでも祖父母が生きていた頃は、レトルトであってもお粥を用意してくれたが、彼らが亡くなってからは完全に無関心になった。

 朝食は当然用意されず、昼食は総菜パン一つだけ、そして夕食を一緒に食べることは許されない。

 叔父と義叔母と孝平──彼らにとって家族はその3人だけで、悠利は厄介者どころか、あたかも存在しない者のように扱われていた。

 目に見えない分厚い壁に阻まれ、悠利は孤立するしかなかった。

(……どうして僕は──生まれてきてしまったのだろう……)

 父親にも母親にも、誰にも望まれず、必要とされないのなら、この世に生きている意味などあるのだろうか?

 常に悠利の心を脅かしていた問いが突如として浮かび上がり、スプーンを持つ手が震えた。

 虚ろに見開かれた瞳から次々と流れ出す涙を認め、零は悠利の隣に座ると、彼の頭部と身体を包み込むようにそっと腕を回した。

「──僕は…いつだって一人で……でも、家族はずっと欲しくて……。
 いつの日か、きっと、僕と家族になってくれる人ができるって……いつも願っていました。
 でも、僕は…オモチャぐらいにしかなれない──孝平も…あの人も……僕の事が好きなわけでもないのに、遊びだって……。
 母さんも僕をよく叩いてた……僕がいらなかったなら、産まなければよかったのに!
 あの人が僕を産みさえしなければ、僕は……こんな想いをしなくてもすんだんだ!」

 絞り出すような声で感情を吐き出した後、激しい慟哭が迸った。

 まるで縋っていなければ溺れてしまうとでもいうように、零の身体に強くしがみついて肩を震わせている悠利を、零は目を閉じたまま黙って抱き締めている。

 閉ざされた零の瞼の縁から、すうっと静かに涙がこぼれた。

 琉花は椅子から下りると、二人を残して客間を出た。

 泣いている先生の姿を見ているのも、慰めるように静かに抱き締めている母親の姿を見ているのも、何故かひどく哀しくて、胸が苦しくなってしまう。

「るか……ゆーりせんせーに、早く元気になってもらいたいな」

 広いリビングのソファに一人で座っていると、どうやら「シノギ」を終えたらしい父親が書斎から戻ってきた。

「──琉花……零はどうした?」

 無意識なのか、母親の名前を呼んでいる父親の顔を見上げ、琉花は両足をブラブラさせながら答えた。

「レイは、せんせーをぎゅって、なぐさめてあげてるよ」

「……琉花、『レイ』じゃなくて『ママ』だろう」

「だって、パパが言ったんだよ、『レイはどうした?』って」

 唇を尖らせて反論した琉花は、微かに憮然とした表情で向かいのソファに座った父親に近づき、小さな両手を伸ばした。

「パパ……だっこして」

 大きな手が琉花の身体を軽々と持ち上げ、膝の上に乗せてくれる。

 ぎゅっとその大きな体にしがみついた琉花は、背中を軽くあやすように叩いた手に安堵感を覚え、鳶色の瞳をゆっくりと閉ざした。