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<17>



 もう一度パジャマに着替え、自分が使っている客室に戻ろうとした悠利は、リビングのドアの所に大きな黒い影が立っている事に心底驚いた。

 恐怖さえ呼び起こす鋼の瞳を向けられ、悠利が立ちすくんでしまうと、この家の主である鷲塚は顎をしゃくってリビングへと促した。

 長身にガウンを羽織った姿からは、零を抱いていた時のような獣じみた雰囲気はどこにも感じられない。

 誘導されるままにソファに座った悠利は、真向かいに座った彼が長い足を組み、少し考え込むように頬杖をついた姿につい見惚れてしまった。

(……もの凄く怖いけど……この人、綺麗だ──)

 例えるなら、黒豹や虎のように危険極まりない猛獣だろうか。

 不用意に近づけば命さえ奪われる存在であるというのに、その造形の美しさに人は魅了されてしまうのだ。

 そんな事を考えていると、鷲塚がテーブルの上に一枚の写真を置いた。

 そこに写っている人物を認めた瞬間、悠利は両目を大きく見開き、驚愕に喉を喘がせた。

「──おまえを襲ったのは、この男か?」

 感情の起伏が感じられない冷淡な声で問われても、悠利はしばらく身動きすらできなかった。

 やがて、辛うじて肯定するように小さくうなずくと、鷲塚は小さくため息をつくように息を吐き出し、観察するような眼差しで悠利を見つめた。

「あいつもおまえを監禁して、強引に抱いた事は認めている。
 それでおまえが傷つき、川に身投げしようとまで思い詰めていたと聞いたら、さすがに驚いていたようだがな。
 すまない事をした──そうおまえに謝罪して欲しいと言われたんだが、断った」

「……え?」

 呆気にとられて悠利が鷲塚を見返すと、彼はふんと鼻先で笑い、唇に嘲笑を刻んだ。

「ただでさえ、おまえが居候して腹が立って仕方がないのに、どうしてヤツの後始末まで俺がやらなければならない?」

「鷲塚さんは……やっぱり僕の事を……怒っていたんですね」

 薄々感じてはいたものの、ダイレクトに言葉にされてしまうと、心がすくみあがってしまう。

 涙を堪えるように唇を噛んだ悠利を、鷲塚は冷厳な鋼の双眸で見返した。

「はっきり言って、邪魔だ──琉花はともかく、零の傍に男がチョロチョロしているのを見るだけで、腹が立ってくる。
 目が覚めたならさっさと追い返せばいいのに、零も琉花も、揃いもそろって、おまえをしばらく家に泊めると言い出す始末だ。
 反対すると、零には泣かれるし、琉花には『パパとはぜっこー』と言われるし……」

 状況を思い出したのか、わずかに眉をひそめた鷲塚を見返していた悠利は、思わず笑みが浮かびそうになる口許を必死で引き締めた。

(……この人──もしかして、僕に嫉妬してる?)

 富も権力も、そして愛も──全てを持ち合わせているような男が、とるに足らない悠利のような人間に嫉妬を感じるのだろうか?

 ただ、愛する人の傍に、自分とは違う男の存在があるというだけで。

「──だいたい、東山も、謝るぐらいならおまえに手出しをしなければいいだろうに。
 中途半端にコトを起こすから、こういう面倒な騒ぎになる。
 どうせ監禁するなら、逃げられないように徹底的にやればいいのに、ホテルなんかで満足するから、おまえみたいなぼや〜っとしたヤツにも逃げられるんだ。
 その辺の詰めが甘いから、あいつはいつまでもカタギのままなんだろうがな」

 気のせいか、何だかとてつもなく恐ろしい事を言われているような気がする。

 思わず悠利が顔を強張らせると、鷲塚は軽く片眉を吊り上げた。

「とにかく、おまえが嫌がっている以上、二度とおまえには会うなと言ってある。
 ケリは自分でつけろと言っておいたから、どうするかはあいつが自分で考えるだろう。
 あいつを訴えさせるわけにはいかないから示談という事になるが、おまえの要求はこちらから伝える。
 請求する金額を早急に考えておけ」

「……僕はお金が欲しいわけじゃ──」

「貰えるものは貰っておけ──どうせ、あいつが遊びに費やす金なんだからな。
 『金はいらない』という連中に限って、将来金の事で苦労する羽目になるんだ」

 そう言って、鷲塚は話し合いは終わりというように立ち上がった。

「おまえも人のベッドの覗きをやってないで、さっさと寝ろ。
 それだけ元気になったんなら、もう元の生活にも戻れるだろう」

 鷲塚の残した言葉に、悠利の顔は赤くなったり、青くなったり激しく変化した。

(──気づかれてた……いったい、いつから……)

 悠利が覗いていると知った上で、鷲塚はあれほど淫蕩な交合を零に強いたのだろうか。

 その理由は、零が自分だけのものだと見せつけるため──?

 パニックに陥りそうなほど混乱した頭を抱え込んだ悠利は、その時、こんな真夜中には聞くはずのない声を聞いて、飛び上がりそうになった。

「──パパのこと、気にしなくてもいいよ、せんせー。
 ちょっと、よっきゅーふまんでイライラしてたけど、ママにおしおきした後は、いつもどおりに戻るから」

「る、琉花ちゃん! どうしたの、こんな真夜中に?」

「んー、ちょっと、おしっこ。でも、ねむいから、るかもねるね。
 おやすみ〜、せんせー」

 ひらひらと小さな手を振ってトイレの方に歩いていく琉花を見送り、悠利は大きくため息をついてしまった。

(琉花ちゃんって……やっぱり、不思議な子だ──)

 気配は全く感じなかった。
 さすがあの鷲塚の娘だと、今ならば納得できるような気がする。

 あのパパとママのもとで、彼女がどう成長していくのかが楽しみ──それと同時に、やはり少々不安も覚えてしまうのだった。



 幼稚園行事であるクリスマス会が終わると、あっという間に冬休みになっていた。

 今年はお休みの関係で、冬休みがいつもの年よりも少しだけ長い。

 クリスマスイブはもう冬休みであったから、子供達は夜遅くまでサンタさんが来るのを待っているのかもしれなかった。

 しかし冬休みに入ったとは言え、先生たちは順番に幼稚園に出勤しなければならない。

 一応、連絡係というわけなのだが、電話が鳴るという事はあまりなく、ほとんどがやり残された雑用を片づけていくことになる。

 そして、クリスマスイブ──12月24日は、運悪くというべきか、悠利が連絡係になっていた。

 もっとも、他に誰もいない部屋で一人寂しく過ごす事を考えたら、まだ仕事をやっている方が幾分気楽のように思えた。

「26日は大掃除の日だから……ちょっと綺麗にしておいた方がいいな」

 クリスマスが終わったら、幼稚園全体の大掃除を職員総出でこなし、新年に備える。

 園児たちにも「大掃除」と称して、オモチャや本を片づけさせたりはするのだが、やはり子供達ではまだまだ大掃除をしたとは言えない。

 何しろ彼らがいるだけで廊下や教室の床は汚れるから、ピカピカに掃除ができるのは、彼らが来ない休みの間に限るのだった。

 人気の無い幼稚園の教室で、黙々と片づけや掃除をしていると、あっという間に日が暮れてしまっていた。

 外に出ると、空から白いフワフワとしたものが降りてくることに気づいた。

「……雪だ──寒くなったはずだよね」

 このまま降り続ければ、明日はホワイトクリスマスということになるだろうか。

 だが、一人で過ごさなければならない自分にとって、この静かな雪は悲しすぎる。

 悠利は大きく白い息を吐き出すと、白い小さな羽根が舞い降りてくるような空を仰いだ。