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「あ、琉花ちゃん、ママがお迎えに来たよ」

 園門の所で守衛のおじさんに挨拶をしている零の姿を認め、悠利は琉花に声をかけた。

 すると琉花は読んでいた本をパタンと閉じると、本棚の奥の方にそれを隠し始める。

「……琉花ちゃん、どうして隠すの?」

「だって、これがるかのだってわかったら、みんなびっくりしちゃうでしょ?」

「──お家に持って帰って読むとか……」

「るかが本をよめるってわかったら、ねる前にママがよんでくれなくなるもん。
 おもしろいのは一人でよんでもいいけど、るか、ママによんでもらうのも好きなの。
 だからせんせー、ママにこの事ないしょだよ──もちろん、パパにもね」

 ベレー帽を頭にのせながら、琉花はにっこりと笑った。

 しっかりと釘を刺されてしまった悠利は、唖然としつつもうなずいていた。

 相手が子供とはいえ、約束は約束──。

 もっとも、琉花が小学生の低学年程度に読み書きができることを知ったところで、零が本を読むのを止めてしまうとは思えなかった。

 琉花にお願いされたら、零は喜んで本を読んであげるだろう。

 その辺の親心が判らないなら、おませな琉花もやっぱりまだまだ子供ということで──。

 何故だか少し嬉しくなり、悠利はくすりと笑ってしまった。

「でも、琉花ちゃんのママは、琉花ちゃんが『ご本を読んで』って言えば、いつでも読んでくれるんじゃないかな?」

 妙な心配をしている琉花を安心させようと、悠利は微笑みながら言った。

 しかし安心するどころか、琉花は少し呆れたような鳶色の瞳で悠利を見上げ、子供にしては老成しすぎた深いため息をついた。

 さらに肩をすくめるという動作も付け加え、それが大人顔負けに決まっている。

「ちがうよ、せんせー、もんだいはパパの方──るかが一人で本をよめるって知ったら、『自分で読んで、さっさと寝ろ』って言いだしそうだもん。
 パパは、早くママと大人の時間をすごしたいんだって、シショーが言ってたよ」

 琉花の言葉を聞いた瞬間、不覚にも悠利は耳たぶまで顔を赤らめてしまった。

 もともと男女交際にはひどく奥手で、初めてできた彼女にこっぴどく振られて以来、悠利は寂しいシングル生活を続けている。

 いつの間にか彼女不在という状態にも慣れてしまった。

 だが──琉花という娘がいながらも清純な雰囲気を保ち続けている零が、夫とそういう時間を過ごしているのだと想像すると、何だか……ドキドキしてしまった。

「せんせー、お顔真っ赤だよ、かわいー」

 悠利の顔を見上げながら、琉花が小首を傾げて笑っている。

 一応、呆れるぐらいに女顔ではあるものの自分は成人男子なのだから、可愛いという形容詞はあまり歓迎できない。

(可愛いっていう言葉は、琉花ちゃんとか、琉花ちゃんのママとかに使わなきゃ)

 そんな事を思いながら、悠利はそっぽ向いて咳払いをし、教室に入って来ようとしている零に挨拶をしようと備えた。


「ごめんね、琉花、お迎えが遅くなっちゃって」

 ざっくりとしたアイスグレーのセーターにジーンズというカジュアルな服装で現れた零は、両手を上げて飛びついてきた娘の背中を優しく抱き締めた。

 裕福な家庭の子供が多いこの幼稚園では、母親同士の見栄の張り合いも凄まじいものがあり、送り迎えの度にファッションショーを見ている気分になった。

 洋服から始まって、バッグや靴、時計やジュエリーなど、その全てにいったいいくら注ぎ込んだのかと質問したくなるほど、彼女たちはきらびやかだった。

 しかしそんな中で、零だけはいつもジーンズにスニーカーというラフな格好で来るため、そこだけが違った空間に見える。

 かと言って貧乏くさく見えるわけではない──鷲塚家がお金持ちであることは、零の左薬指に輝く指輪を見れば一目瞭然であったし、琉花の日頃の言動を聞けばよく判る。

 つまり、すらりとしたファッションモデルばりの長身であることも手伝って、零は肩の凝らない日常的なオシャレを十分に楽しんでいるように見えた。

「遅くなってすみませんでした、室井先生」

「大丈夫ですよ──琉花ちゃん、良い子でお母さんが来るのを待ってましたからね」

 暖かな優しさが滲みでるような零の微笑みにつられ、にこにこと悠利は満面に笑みを浮かべた。

「そっか。ねえ、琉花、お友達が帰っちゃって、寂しくなかった?
 一人で何をして遊んでいたの?」

 娘と目線を合わすようにしゃがみ込み、零がそう訊ねると、琉花はにっこりと天使のように無邪気な笑顔になった。

「あのねえ、ゆーりせんせーにご本をよんでもらったの。
 ゆーりせんせー、ママと同じくらいにご本よむの上手だし、やさしいんだよー。
 だから、ぜんぜんさびしくなかったもん」

 その言葉に、思わず悠利は「えっ?」と琉花を見下ろしてしまった。

 零は娘の言葉を全く疑っている様子は無い。
 そして琉花は、嘘をついた事に罪悪感など欠片も感じてなさそうだった。

 その母娘の様子に、悠利は内心でたらりと冷や汗を流した。

「ねえ、ママ──もしかして、パパ、おうちに帰ってるの?」

 物言いたげにちらりと悠利を見上げた琉花が、突然、話題を変えた。

 零は驚いたようにセピアの瞳を見開くと、見惚れてしまうほど優美な微笑みを浮かべた。

「すごいね、琉花、大当たりだよ。
 さっき……ちょっと前に帰ってきたから、今日はパパも一緒に夜ご飯食べられるね。
 でも、パパが帰ってきたって、良く判ったねえ」

「さっき」と「ちょっと前」にやや間があったのは気のせいだろうか?

 すると琉花は悪戯っぽい笑顔になり、自分の首を人差し指でちょんちょんと突っついた。

「だってママのお首──ここのとこ、赤くなってるもん」

 素晴らしい観察眼と褒めるべきか──しかし零の顔はみるみるうちに赤く染まり、慌てふためいてしまってそれどころではない。

 悠利もまた、先ほど琉花に聞かされた言葉と、今の爆弾発言のせいで茹で蛸のようになってしまい、ただただ視線を空中に彷徨わせるしかできなかった。

 首筋を片手で押さえた零の顔は、どんな不能の男でもやる気が出てしまうほど色っぽく、経験不足の悠利が直視するには危険すぎる。

 見てしまえば、何が起こるか……見ない方が明らかに無難だった。