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 園児が全員帰宅した後、教室の後片づけと掃除をすませ、細々とした雑用をしていると、いつの間にか7時を過ぎてしまっていた。

 今日、みんなで描いた「サンタさんにお願い」の絵を濃いグリーンの模造紙に貼り付け、それに赤いリボンや黄色の星、白い雪を散らして、壁に大きく張り出す。

 クリスマス会まであと2週間──ちょっと遅くなってしまったが、教室の中が一気にクリスマスっぽくなったような気がした。

 12月になってみんなで飾り付けをしたクリスマスツリーには、七夕と勘違いしたのか、いつのまにか短冊がぶら下がっていたりもして、思わず笑いがこみ上げた。

「サンタさんにお願い……か──」

 ふっと呟きがもれ、悠利は自分で描いたサンタクロースのイラストを見つめた。

 サンタクロースの存在を、いったい自分はいつ頃まで信じていられたのだろう。

 どんなに願っても、望むものは決して手に入らなかった。


 銀座のクラブでホステスをしていた室井透子(ムロイ トウコ)は、有力な政治家と愛人契約を結び、しばらくは豪勢な生活を送っていたらしい。

 ところがある時、彼女はハンサムな若い秘書と浮気をし、それが発覚して手切れ金と共に放り出されてしまう。

 しかし、その後妊娠している事に気づいた透子は、生まれてくる子供を利用して元愛人を強請ろうと企んだのだ。

 生まれてきた赤ん坊は──悠利は、明らかにその政治家の息子ではなかった。

 だが、彼はスキャンダルを怖れ、養育費は支払うと透子に約束した。

 透子の計画は思い通りに進んだが、計算違いは子育てそのものだった。

 育児に関して何の準備もしていなかった透子は、すぐに育児ノイローゼとなり、いつしか悠利に虐待を繰り返すようになっていた。

 娘と孫を心配して、長野の実家から時々両親が様子を見に来てはいたが、透子はその時だけは甲斐甲斐しく悠利の世話を焼き、可愛がっているふりをする。

 しかし悠利の表情があまりに乏しく、いつも母親に怯えを見せている事に気づいた祖父母は、幼い身体に明らかな折檻の痕跡を発見した。

 娘に厳しく問い質すと、彼女はそれまでの態度を豹変させた。

「──だって、言うことを聞かないんだもの、仕方ないじゃない。
 悠利は私の子供なんだから、どんな躾をしようが、母親である私の勝手でしょ?」

 祖父母にとって、透子は自慢の娘だった。

 東京の有名女子大を卒業し、政治家の秘書として働いている──まさか愛人に収まっているなどとは夢にも思わなかったのだろう。

 全てを両親に暴露した透子は、そのまま逃げるように部屋を飛び出していった。

 そして──夜道を猛スピードで走ってきた車に轢き逃げされ、あっけなく死亡した。

 取り残された悠利は、祖父母と透子の弟夫婦が一緒に暮らす長野へと引き取られることになったのである。


(──それでも、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが生きていた頃は、それなりに平穏だった)

 ほうっと白い息を吐いた悠利は、真っ暗になってしまった夜空を仰いだ。

 通勤カバンにしているリュックサックをダッフルコートの上から背負い、悠利は冷たくなった両手を擦り合わせた。

 リュックサックもコートも、高校時代からずっと使い続けているものだった。

 愛用というより、無駄遣いができなかったせいで、買うに買えなかった。

 大学時代、奨学金を貰い、割のいい家庭教師というアルバイトをしながらも、仕送りも無い悠利の生活は贅沢とはほど遠かった。

 本当に必要最低限の物だけ購入する生活──だが、それは今でもあまり変わらない。

(正規職員になれれば良かったんだけど……でも、念願が叶ったんだから、贅沢を言っちゃだめだよね)

 幼稚園教諭になるというのは、悠利がずっと思い描いていた夢だった。

 自分が満たされない幼少期を送ったせいか、もし同じような境遇にいる子供がいたなら、少しでも慰め、励ましてやりたいと思っていた。

 だが、実際に働いてみると、毎日の忙しさに追われる生活が続き、無我夢中で与えられた仕事をこなすことしかできない。

 それでも、ようやく一ヶ月が経ち、子供達の個性も少しずつではあるが判るようになった。

 鷲塚琉花という異色の存在はいるが、おおむねどの子も悠利には懐いてくれたようで、毎日が充実して、楽しい生活が送れている。

 1年間の臨時採用ではあるが、給料も新入の先生と同じぐらいには貰えているし、頑張ればボーナスも出るらしい。

「お休みだし、カレーでも作っておこうかな」

 近所のスーパーに閉店間際に駆け込めば、いくらかは材料も安く手に入るだろう。

 こんなに寒い日には煮込み料理に限ると思いながら、悠利は幼稚園の門を出た。

 ところが、門から少し歩いた所で、突然、悠利は背後から声をかけられた。

「──おい、悠利。ちょっと待てよ」

 そのふてくされたような低い声は、聞き覚えのあるものだった。

 はっとして振り返った悠利は、大柄な体格の青年が近づいてくるのを見て、思わず立ちすくんでしまった。

「……孝平君──どうしてここへ?」

 叔父夫婦の息子であり、悠利より一つ年下の従弟である室井孝平(ムロイ コウヘイ)は、悠利の顔を見下ろしてにやりと笑った。

 二浪して都内の私立大学に入学した孝平は、さらに1年留年しているため、今は3年生として在学している。

 叔父夫婦から十分過ぎるほどの仕送りをしてもらっているせいか、アルバイトもせずに悠々自適の生活を送っているようだった。

 180センチ近い身長とがっしりとした体格、さらにはお金のかかった洋服を着込んでいるため、孝平の方が悠利よりも遙かに大人びて見えた。

「どうしてって、最近、めっきり音信不通だからな。
 どうしてるかと思って様子を見に来た──っていうのもあるけどよ、合コンやるのに人数足らないんだわ。
 悠利ならその辺の女より可愛いから、あいつらも許してくれるかと思ってさ」

 軽薄に見える笑いを浮かべた孝平を、悠利は呆気にとられて見つめた。

「──合コン? ごめんね、僕、そういうのは苦手だから」

 本当に苦手であったし、夜遊びするような余裕は全く無い。

 しかし孝平は唇を尖らせて拗ねた顔つきになると、悠利の頭から爪先までをジロジロと無遠慮に眺め回した。

「相変わらず、そのコート着てんのか?
 それって、俺のお下がりだったやつだろ?
 就職したんだったら、もうちょっと見栄えのするヤツを買えばいいのに」

「就職したって言っても、先月からだから。
 それに臨時採用だから、無駄遣いするわけにいかないだろ?
 このコート、着慣れてるし、毎年クリーニングに出してるから綺麗だし……」

「っていうか、子供っぽいぜ──今のおまえ、絶対、20代には見えねえって。
 ……まあ、いいけどな。
 それより、金が無いんだったら、全部俺が驕ってやるから、やっぱり付き合え」

 そう言って、悠利の腕をつかんだ孝平は、道路の反対側に停めてある車に向かって強引に歩き出した。