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 天上界を表す黄金の光、広がる蒼穹の青、大天使の背に輝く深紅の翼――。

 朝日が色鮮やかなステンドグラスに射し込み、祭壇上のイエス・キリストをも浮かび上がらせていた。

 石積みの壁に囲まれた仄暗い礼拝堂の中は、ひんやりと湿った空気が流れ、光から切り離されたような影に覆われている。

 鞭打ち用の腕枷台に繋がれたロキの躰にも、じっとりと冷気がまとわりついていた。

「マティア様。神の御前で、正直にお話しください」

 細長い枝笞(えだむち)を手にしたエレスブルク城の司祭オリゲネスが、冷たく淡々とした声で告げる。

 台座に両膝をつかされ、枷台に挟まれた両腕を前方に突き出していたロキは、涙ぐんだ黒瞳でステンドグラスと十字架を仰いだ。

 何度問われても、答えは同じ。

 真実はひとつしかない。

 笞打ちの痛苦にすくみ上っている自身を哀れみながら、ロキは救いを求めるように救世主(キリスト)を見つめ、深く息を吸い込んだ。

「わたしは盗っていません! 
 父上の短剣に触れたこともない。わたしは何も知りません」

「……強情な。まだ嘘をおっしゃるのですか?」

 ヒュンと空気が鳴り、ロキの手の甲で灼熱が弾ける。

「――ぅぐっ……ううっ!」

 呻きを上げないよう、奥歯を食いしばったロキの額から、滲み出た脂汗が滴り落ちた。

 もう一度枝笞が鋭く炸裂し、激痛に貫かれたロキはガクガクと全身を震わせる。

 だが、この程度の懲罰で、声を上げてはならない。

 誇り高きザクセンの貴族ならば――。

 厳格な父、ヒルデブラント・フォン・ヴァレンロード伯の酷薄な蒼瞳が脳裏に浮かぶたび、ロキは死にもの狂いで辛酸に耐えた。

 毎日の礼拝を執り行う司祭であり、ヴァレンロード伯の息子たちの教育係でもあるオリゲネス司祭は、九歳のロキに対しても非情に枝笞を振るう。

 何度も打擲を受けたロキの手は、幾筋ものミミズ腫れが浮き上がり、所々に血が滲んでいた。

「嘘じゃない……わたしは……何も、盗ってない……」

 すでに一刻、ロキは同じ言葉を訴え続けている。

 背中まで伸びた漆黒の髪を乱れさせ、ロキは息も絶え絶えに肩を喘がせた。

「司祭様。ロキは忌まわしき原罪を宿し、悪魔の血を引いているんでしょう?」

 突然、耐え忍ぶロキの姿を嘲るように、次兄バルドゥルの嗤い声が響いた。

 祭壇を仕切る内陣柵の前に繋がれたロキの背後、会堂の列席から、残酷さを秘めた言葉が放たれる。

「尻を引っ叩(ぱた)いてやらないと、ロキは本当の事なんて言いませんよ。
 いつだって嘘ばかりつくんですから」

 末弟をいたぶる喜びと、司祭を揶揄する賢(さか)しらな声は、ロキの躰に激しい怒りを呼び起こした。

 父、ヒルデブラントが所有する黄金の短剣を盗んだのは、バルドゥルなのだ。

 それなのに罪をロキになすりつけて、本人は楽しげに懲罰を傍観している。

 肩越しに振り返り、汗にまみれた黒髪の隙間から睨みつけると、ちょうど視界に入る椅子に座っていたバルドゥルはにやりと笑った。

 古の神々の中で、もっとも輝かしい光の男神の名を授けられたバルドゥルは、ラファエルという洗礼名が示す通り、天上の御使いのごとく美しい少年だった。

 ロキより三つ年上で、同じ父を持つ兄ではあったが、母親が違う。

「父上の、短剣を盗んだのは……兄上です。わたしじゃない」

 かすれた声で訴えると、バルドゥルはわざとらしく肩をすくめ、立ち上がって司祭の傍に近づいた。

「ほら、ね。ロキはすぐに、俺のせいにする。
 だいたい、俺が父上の物を盗むはずがない。
 欲しければ、父上はいつでも譲ってくださる。
 そんな俺のことが、ロキは妬ましくて仕方がないんですよ」

 十二歳の少年にしては狡猾な言葉で、バルドゥルはオリゲネス司祭に弁明をする。

「ロキは父上に嫌われているから……きっと、俺のことを陥れたかったんでしょう」

 短剣を盗んだのはロキではなかったが、ヒルデブラントに嫌われているという兄の言葉は真実だった。

 父の愛情は、長兄のジークフリートとバルドゥルだけに注がれていて、三男のロキは生まれた時から疎まれ続けている。

それゆえに胸がえぐられ、手の甲が裂けるよりも強く心が痛んだ。

「……わたしは、盗っていません! 神に誓って……本当なのです」

 溢れ出した涙を止めることすらできなくなり、ロキは不審を露わにするオリゲネス司祭ではなく、遙か遠い天におわす救世主(キリスト)に訴え続けた。

 何故、信じてもらえないのか――。

 何も、悪いことなどしていないというのに。

 エリ・エリ・レマ・サバクタニ――。

 神よ、何ゆえ、我を見捨てたもうや……。

 イエス・キリストが十字架に掛けられた時、父なる神に問うた言葉が、我が事のように感じられた。

 兄弟の異なる訴えを聞いていたオリゲネス司祭は、おもむろにうなずくと、ロキの背後へと回ってきた。

「ラファエル様の言い分の方が、ちゃんと筋が通っていますね。
 兄上が泥棒だという証拠でもあるのですか、マティア様?」

 ヒルデブラントが名付けた異教の名前を嫌い、常に洗礼名で呼ぶ司祭の声に、微かに興奮した響きが宿っているのをロキは感じ取った。

「……いいえ。証拠は……ありません――ただ……」

 バルドゥルは、短剣が欲しくて盗んだわけではない。

 弟のロキを虐めたくて、司祭に笞打たれる惨めな姿を見たくて、いつも残酷な罠を仕掛けてくるのだ。

 バルドゥルの奸計に嵌って叱られるのは、これで何度目になるのだろう。

 最初は些細な悪戯だったが、バルドゥルの策略はどんどん激しく巧妙になって、最近はロキが涙するまで止めようとしない。

 ロキの味方になってくれる長兄ジークフリートは、三ヵ月前にエレスブルク城を発ってしまった。

 父の後継者たるジークフリートの不在を狙って、バルドゥルはロキを陥れているのだ。

 だが、ロキの直感を裏付けるものは何も無く、父も司祭も信じようとはしない。

 彼らにとって、真実を語るのは常にバルドゥルで、ロキは生まれた時から嘘つきだと思われている。

 忌まわしき名前が示す通りに――。

 バルドゥルに対する弾劾を躊躇していると、嘆息をもらしたオリゲネスは、手際よくロキが穿くズボンの腰紐を緩めてしまった。

「――イヤぁっ! 嫌です、止めてください!」

 逃れようと抗うロキの腰を、オリゲネス司祭が右腕でがっしりと抱え込む。

 さらに司祭は、ためらうことなくロキの尻を剥き出しにしてしまった。