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魔道士の幻惑


<1>



 清新な朝日が射し込む部屋の中で、朝食のテーブルについていたロキ・アーヴィングは、頬杖をついたままぼんやりと窓の外を眺めていた。

「お顔の色が随分と悪い。お疲れなのではありませんか、ロキ様?」

 ロキの前にあるティーカップを取り上げ、紅茶をつぎ足しながら執事のアルバート・レニングが気遣うように訊ねた。

 ロキは無言でアルバートを見上げると、ゆっくりとうなずき、漆黒の双眸を閉ざした。

 指先で眉間を押さえ、ロキは少し困惑したように首を傾げてため息をついた。

「──疲れ切っているはずなのに、最近どうも眠れないんだ。
 どうにかして眠れないかと試行錯誤しているうちに、いつの間にか朝になってしまう」

「10月に入ったことですし、少し、お仕事を休んでみてはいかがですか?
 ブリストルを離れて、旅行に行かれるのも良い気分転換になるかと思いますが」

 憔悴の色が濃い美貌の主人を気遣うように、アルバートがそうアドバイスをすると、ロキは艶めかしいほど紅い唇に微笑を浮かべた。

「どこへ行こうと、今月末にはあいつが現れる。
 逃れられるのなら、世界の果てであっても飛んで行くだろうけれどね。
 だが、抜けられない用事がいくつか入ってるから、そう遠くへは動けないな。
 旅行といっても、せいぜいロンドン止まりだ」

 イングランド南西部最大の港町ブリストルで、開業医としての生活を送っているロキは、10月の予定を脳裡に思い浮かべると、自嘲的に苦笑した。

「王立医学協会の講演会と、あと他にも会合があったな。
 ブリストル医師会の集まりもあったし……」

 テーブルの上に肘をつき、両手の指を突き合わせながら考えを巡らせたロキは、憂鬱そうに重いため息をついた。

 その時、玄関で呼鈴が鳴り、アルバートは客人と応対するために部屋を出て行った。

 ロキは立ち上がると、道路に面した窓から外をのぞいた。

 今日は診療所も休診になっており、来客の予定も特に無い。

 しかし戸口の前に止まっている紋章入りの自家用四輪馬車を見下ろした途端、ロキの眉は寄せられ、真剣に考え込むような表情になった。

(──あの家紋は、ラッセルウッド伯爵家のものだな。
 エドワード卿の容体が急変しそうな兆候はなかったが)

 ロキは、八代目のラッセルウッド伯爵であるエドワード・ジョシュア・ウェントワース卿の気品ある温厚そうな顔を思い出し、無意識のうちに居住まいを正した。

「ロキ様──ラッセルウッド伯爵がいらっしゃいました」

 老伯爵自ら出向いてくるとは想像していなかったロキは、案内してきたアルバートの声に驚愕したが、すぐにステッキをついて現れた老人に礼儀正しく一礼した。

「どうぞお掛けください、伯爵──お加減はいかがですか?
 今日のように空気が冷え込む朝は、あまり無理をしてお出かけをなさらない方がよろしいですよ」

 暖炉の前のソファをすすめたロキを見つめ、ラッセルウッド伯爵は不審なほど青ざめた顔をわずかにほころばせると、軽く咳払いをした。

「正直なところ、このまま発作を起こして死ねたらどれほど気楽だろうかと思う。
 だが、孫の──アーサーの事を考えれば、この怪異を放り出したまま死んでしまうわけにはいかないんだよ、アーヴィング君。
 この老いさらばえた身体に鞭打ってでも、アーサーを助けてやらねば……」

 もともと喘息持ちで、ここ数年で心臓が弱くなっている老伯爵は、見事な銀の柄を持つステッキを強く握りしめた。

 そのはしばみ色の瞳の奥に深い苦悩を抱え込んでいるようにも見え、ロキは伯爵と向かい合うように座ると、安心させるように穏やかに微笑んだ。

「私でお役に立てる事であれば、何なりとおっしゃってください、閣下。
 ただ……その怪異というものが、私の手に負える類のものならば良いのですが。
 アーサーに何かあったのですか?」

「口の軽い者に話すわけにはいかないのだ。
 アーサーとラッセルウッド伯爵家の名誉を守るためにはな。
 その点、君ならば適役だろう──君はアーサーの事をよく知っているし、孫も君には懐いている。
 だからこそ、彼の名誉を損なうような事はするまい」

 意味深な言葉を口にしたラッセルウッド伯爵は、男にしては美麗すぎるほどの容姿を持つ若い医師を鋭く見つめ、そして溜息をついた。

「……すまない、ろくな説明をせずにこのような事を言って、老人の戯言のように聞こえるかもしれんな。
 だが、事は急を要するのだ。
 説明をして君に先入観を与えるよりは、アーサーの様子を直接見てもらった方が良いと私は思っている。
 本当に申し訳ないのだが、このまま私と一緒にラッセルウッド・ホールに来てはもらえないだろうか?」

 いつも鷹揚な老伯爵らしくない、返答を急くような様子に驚きながらも、ロキは冷静にうなずき、外出の準備をするために立ち上がった。

「少しお待ちいただいてよろしいですか、伯爵?
 それと、アーサーに何か治療が必要であれば、往診鞄を持っていきますが」

 すると、伯爵ははかないほどに悲痛な表情になり、重々しく頭を振った。

「いや──必要があるとすれば、それは強い信仰と銀の弾丸がこめられたピストルかもしれない。
 迷信深いと君には笑われるかもしれんが、実際にあれを見た者は、神に祈る事しかできなくなるんだよ。
 それほどにおぞましく……悪魔的なのだから──」

 苦しげに顔を歪めたラッセルウッド伯爵は、そう言い終えると激しく咳き込み始めた。

 ロキが慌てて駆け寄ろうとすると、老伯爵は息を荒らげながらそれを制し、ゆっくりと深呼吸をした。

「大丈夫だ……私の事は心配するな。
 私の命は残り少ないが、まだ、死ぬわけにはいかない。
 ……心残りがあるうちは、死んでも死にきれないだろうがな」

 その言葉を聞いたロキは、心の奥に湧き起こった鋭い痛みに耐えるように眉根を寄せ、深い闇を宿した双眸を伏せた。

 自嘲的に薄い唇を歪めた老伯爵は、ロキの苦悩と哀しみの根源を見通そうとでもするように、はしばみ色の瞳をわずかに細める。

「安静にしていれば、あなたはまだ十分に長生きできますよ、閣下。
 ──とにかく、まずはアーサーに起こった怪異を見極めにうかがうことにしましょう」

 再び視線を上げた時、ロキの瞳には強い決意が光っていた。

 この世の者とは思えない凄艶な、白く輝く怜悧な美貌を見返したラッセルウッド伯爵は、その言葉を聞き、ようやく口の端に微笑みを刻んだのだった。




 ラッセルウッド伯爵家の館ラッセルウッド・ホールは、ブリストルの市街地から少し離れたエイヴォン河の西岸、緑豊かなリーウッズにあった。

 エイヴォン峡谷を見下ろす丘の上にあるジョージ王朝式のラッセルウッド・ホールからは、ブリストルのシンボルであるクリフトン吊り橋を眺めることができる。

 伯爵家の馬車に同乗し、ラッセルウッド・ホールを訪れていたロキは、居間から見える壮大な吊り橋を感嘆の面持ちで見つめていた。

 自然美に溢れたエイヴォン河の両岸に、高い二つの石塔が聳え立ち、その塔の間に白い糸のように繊細な橋が渡されている。

 エイヴォン峡谷の両岸をつなぐ優雅な鋼鉄の吊り橋は、ロンドンとブリストルを結ぶグレート・ウェスタン鉄道を敷設した偉大な技術者イザムバード・キングダム・ブルネルの設計によって建設されたものだった。

 イザムバードの父は、サー・マーク・イザムバード・ブルネル。

 マーク・ブルネルもまた偉大なエンジニアであり、ロンドン・テムズ川河底トンネルを完成させた功績を認められ、彼はサーの称号を与えられている。

 1806年、イザムバードはマーク・ブルネルの長男として誕生した。

 16歳の時から父親の仕事を手伝い始めていたイザムバードであったが、20歳の時、ロンドン・テムズ川河底トンネルの工事中に出水事故で重傷を負ってしまう。

 九死に一生を得たイザムバードは、怪我の療養のためにブリストルに滞在していたが、そこでクリフトン吊り橋の設計コンペに応募し、若干24歳で優勝する。 

 その後、設計コンペ優勝で一躍有名になったブルネルが任されたのは、ロンドン─ブリストル間を結ぶ鉄道の設計だった。

 当時、ブリストルはイギリス第2の港湾都市であったが、ロンドンと鉄道で結ばれたリヴァプールにその地位をおびやかされそうになっていた。

 そのためブリストルの富裕商たちは、ロンドンとブリストルを直接結ぶ鉄道を敷設しようと計画しており、当時27歳であったブルネルが技師として任命されたのである。

 グレート・ウェスタン鉄道の、ロンドンのパディントン駅から、ブリストル・テンプル・ミーズ駅までの全線は1841年に開通し、ブルネルは、橋梁、トンネル、駅舎などを設計、監督をしている。

 完成したグレート・ウェスタン鉄道は、首都ロンドンとイングランド南西部地域を繋ぐ大動脈となり、人々はしばしば、GWRという略称から”God's Wonderful Railway(神の素晴らしい鉄道)”と呼ぶようにさえなった。

 一方、資金難などによって工事が中断されていたクリフトン吊り橋は、ブルネルの死をきっかけにして工事が再開され、1864年に完成した。

 当時、世界最長の吊り橋である。

 父から離れ、イザムバード・キングダム・ブルネルが独立した技術者として名を知られるきっかけとなったこのクリフトン吊り橋は、彼の数々の偉業を称える遺産の一つとして、今でもブリストルの街並みを見下ろしているのである。



(……GWRのおかげで、確かにロンドンには出やすくなったがな)

 ブリストルの住人や沿線に住む人々にとっても、グレート・ウェスタン鉄道はまさに神からもたらされたかのごとき贈り物だった。

 さらにブルネルは、世界最大の蒸気船を三隻、このブリストルで設計、建造し、ブリストル─ニューヨーク間を就航させている。

 貿易港として斜陽の時代を迎えていたブリストルに、ブルネルが果たした功績は大きい。

 クリフトン吊り橋を眺めながら、いつの間にか物思いに耽っていたロキは、名前を呼ばれてはっと我に返った。

「──アーヴィング先生。アーサー様のお部屋にご案内いたします。どうぞ、こちらへ」

 ラッセルウッド・ホールの執事マクベインが、ほとんど気配を感じさせない物静かな動きでロキを廊下の方へと促す。

 祖父の時代からラッセルウッド家に仕えているマクベインは、非常に背が高く、彫りの深い顔立ちをした中年の男だったが、ほとんど頭は禿げ上がり、残っているわずかな髪もほとんどが白髪に変わっていた。

 しかし黒のフロックコートを着たその姿は、堂々として重々しい雰囲気のラッセルウッド・ホールの一部であるかのごとくに溶け込んでいる。

 マクベインに案内され、ロキはラッセルウッド伯爵の孫であるアーサー・ウィリアム・ウェントワースの部屋に足を踏み入れた。

 その途端、その部屋の異様さに気づき、ロキは思わず双眸を眇めていた。

 ベッド以外の家具は全て無くなっており、美しかったはずの壁紙がナイフで切り刻まれたかのようにぼろぼになっている。

 カーテンは全て取り払われ、窓は鎧戸で締め切られていた。

 まるで獣が暴れ回ったかのような惨状の部屋の中で、天蓋付きの大きなベッドに痩せ細った少年が一人横たわっていた。

 彼の両手足は奴隷を繋ぐ枷のようなもので拘束されており、それぞれがベッドの支柱に繋いである。

 その少年の枕元には沈痛な面持ちをしたラッセルウッド伯爵が椅子に座っており、老伯爵の反対側に濃緑色の制服を着たフットマンが直立不動で控えていた。