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魔道士の呪檻


<10>



 セヴランの上半身に幾重にも巻かれた白い包帯に、深紅の血がにじみ出しているのを見た瞬間、ロキは凍りついたように立ちすくんだ。

 ちょうど右腕の付け根と胸の間に、鮮やかな血の花弁が広がっている。

 それは雪原に散った少女の血と同じ色で──ロキは声も無く喉を喘がせた。

 寝台に横たわるセヴランの顔色は悪く、額には脂汗が浮いている。

 呆然としていたロキは、苦悶する低い呻き声を聞いた途端、寝台の枕元に駆け寄った。

「──セヴラン? 私の声が聞こえるか?」

 速く、浅い呼吸を繰り返している騎士は、固く瞼を閉ざしたまま、ロキの呼びかけにも反応を示さなかった。

 銃弾に撃ち抜かれた激痛に意識は薄れてしまっているのか、意味をなさない獣のような唸り声だけが部屋の中に響く。

 震えだした唇を片手で覆ったロキは、冷静にならなければと必死で己を叱咤し、机の上に置かれていた紙に必要な薬草の名を書き連ねた。

 召使いに手伝わせて急いで薬湯を作り上げると、ロキは寝台の枕辺に座った。

「さあ──これを飲んで……」

 頭部を支えながら、死人のように白くなった唇に小さな茶碗をあてがい、ロキはその中の薬湯をセヴランに飲ませようとした。

 しかし少し口に含んだだけで、セヴランは激しく咳き込んでしまう。

 そしてさらに苦痛が増したのか、切れ切れの呻き声が唇から漏れだした。

 このまま死んでしまうのだろうかという予感に、みぞおちのあたりが冷たい恐怖に疼く。

 どろどろとした薬湯を口に含んだロキは、そのままセヴランに口づけ、ゆっくりと口移しで飲ませようと試みた。

 やがてごくりと喉が鳴り、薬湯のほとんどを飲み下したセヴランは、しかしそのあまりの苦さに呻き、反射的にロキの柔らかな唇に噛みついていた。

 切れた唇からこぼれ落ちた血はあまりにも甘く、無意識に舐め取ろうと舌を動かしたセヴランは、しかし次の瞬間、全身が火を吹くほどの激痛を感じ、絶叫した。

 動かせる左手がロキの腕をつかみ、骨を砕かんばかりの力で締め上げる。

 その痛みに必死で耐えていたロキは、がくりと気を失ったセヴランを見下ろすと、血の滲む己の唇をそっと舐めた。

(──私の血には、ベリアルの呪いが染みこんでいるというのに……)

 バルドゥルの長きに渡る飢えを満たすほどの魔力に満ちた血は、ベリアルとの契約から解放されても、その力を失わないのか──。

 魔性の者にはまたとない糧となり、魔力を増大させるという忌まわしい血は、しかしロキの血管を情欲の炎で燃やし、狂うほどの色情が身を焦がす。

 そして、激しい快感を求める肉体を鎮める方法は、忌まわしくも呪いを与えた張本人に抱かれるしかない。

 ふうっと意識に身体が引きずられるような浮遊感と、身体の奥に淫靡な熱を感じたロキは、我に返ったようにかぶりを振った。

(ほんの少しなのだから──セヴランにはきっと何事も起こらないはずだ)

 自分自身を納得させるように言い聞かせながら、ロキは湯に浸した布を取り上げ、汗に濡れたセヴランの身体を清め始めた。

 それからつきっきりで看病を続けていたロキは、三日目の深夜になって、ようやくセヴランの呼吸が落ち着いたのを見て安堵のため息をもらした。

 ゆっくりと包帯を解いて傷口をあらためると、すでに出血は止まり、ぶよぶよとした赤い肉が盛り上がっている。

 銃創に湿布を張り直し、清潔な包帯に取り替えた後、ロキは咽せさせないように気遣いながら、口移しで薬湯を飲ませた。

 先に召使い達を全員休ませてしまったため、重量のあるセヴランの手当をロキ一人でするのは大変だった。

 したたり落ちてきた汗を手の甲でぬぐったロキは、その時、セヴランがうっすらと瞼を開いたのを認め、枕元に屈み込んだ。

「──ロキ……?」

 かすれた小さな声で呼びかけられ、ロキは淡く微笑んでうなずくと、そっと掌を男の頬に滑らせた。

「ずっと意識が戻らなくて──本当に心配していたんだ。
 峠は越えたから、多分もう大丈夫だとは思うが、しばらくは絶対に安静にしていなければならないぞ、セヴラン」

「……すまない──何が起こったのか……判らない……」

 無理をして話そうとするセヴランの唇に指先を置き、ロキはゆっくりと首を振った。

「今はまだしっかり眠って、身体を休めなければ。
 ──苦しくはない?」

 抑揚のある、豊かな美しい声に眠りを誘われたのか、セヴランの瞼が下がった。

「……それほど苦しくは……ただ、ひどく……寒い──」

 ロキが手を伸ばして額に触れると、先ほどまでよりずいぶんと熱が上がっている。

「熱が上がってきているんだ。
 氷のように冷たくなられるよりはましだが、もう少しするともっと辛くなるかもしれない」

 眠りに落ちたセヴランの額に井戸水で絞った冷たい布を置いたロキは、やつれてしまった精悍な顔を物憂げに見つめ、深いため息をついた。

 目に見える傷口部分に化膿は見られないが、貫通した胸の中までは判らない。
 高熱が続いて錯乱状態に陥り、そのまま命を落としてしまう可能性はまだ残っていた。

 椅子に座ったまま両手で顔を覆ったロキは、ほとんど不眠不休で看病を続けていたせいか、全身に重石を載せられたような疲労を感じていた。

 少し眠らなければ自分も倒れてしまうと思い、椅子から立ち上がったロキは、不意にセヴランが小さく咳き込み、その身体が震えだしていることに気づく。

(──神よ……お願いです──どうか、彼の命をお救いください)

 もはや祈ることしかできず、ロキは悲嘆に沈む漆黒の瞳を閉ざした。

 そして、決意したように身に纏っていた衣装を脱ぎ落とすと、ぶるぶると震えているセヴランの身体に寄り添うように、そっと寝台に滑り込んだ。

 お互いの肌が触れ合い、熱が伝わると、小刻みの震えが止まる。

(もし私の命を与える事ができるなら、喜んで差し出すというのに)

 本来全うするべき寿命を遙かに越え、老いることなく、時間に取り残されたように生き続けている生命──。

 だが、呪われた命を与えたなら、与えられた者もまた汚れてしまうのだろうか。

 自嘲的に考えながらロキは瞼を閉ざすと、無意識にすり寄せられてくる体躯を傷つけないように注意しながら、そっと包み込むように抱き締めた。



 10月に入り、防腐処置を施した「ベート」の死骸をヴェルサイユに運んだボーテルヌ射撃部隊隊長は、恐るべき獣の剥製をルイ15世に献上した。

 幾人もの証言者によってそれが間違いなく「ジェヴォーダンのベート」であると認められた剥製を見て、国王は非常に喜んだ。

 ルイ15世は、大勢の貴族が居並ぶヴェルサイユ宮殿の大広間でボーテルヌの手柄を褒め称えると、約束されていた1万リーヴルの賞金を与えたのである。

 こうして、「ジェヴォーダンのベート」事件にようやく幕が下ろされた──全てが終わったかのように見えた。

 もっとも、本当に「ベート」が退治されたのかどうか、心の底から信じきれずにいる人々もまだ多く存在してはいたが──。


 寝台の上で、華々しいボーテルヌの「ベート」狩りを書き立てた新聞を読み終えたセヴランは、凄まじく苦いお茶を用意しているロキに声をかけた。

「──今日も、そのとてつもなく不味い薬草茶を飲まなければならないのか?」

「まだ当分は飲んでもらうぞ、セヴラン。
 死線を彷徨って命拾いしたのだから、そこまで露骨に嫌な顔をすることはないだろう?」

 めざましい回復力を見せたセヴランにティーカップを差し出したロキは、皮肉っぽく眉をつりあげて見せると、くすりと艶やかに微笑んだ。

 ただの貴族とは思えぬほど薬草学に詳しいロキの作る薬湯は、確かにセヴランの命を救ってくれたが、意識が次第にはっきりしてくると、耐え難いほどに苦いものだと感じた。

 渋々といった面持ちでカップに口をつけたセヴランは、清涼な芳香を放つ薬草茶が驚くほど甘いことに気づき、思わず目を見張っていた。

「おや──これは美味しい」

「いつも苦い苦いと駄々をこねるから、今日は蜂蜜を入れておいたんだ」

 朝陽の射し込む窓にかけられたカーテンを開けながら、ロキは悪戯っぽく笑った。

 崇高な光に浮かび上がった姿はあまりに美しく、聖壇画に描かれた天使を思わせたが、夜を思わせる神秘的な瞳には深い悲嘆と苦悩が宿っている。

 表面的には明るく振る舞いながらも、何故か恐怖に追いつめられているような雰囲気さえ感じられた。

 セヴランの脈を取ろうと枕元に腰掛けたロキは、不意に強く肩を引き寄せられると、驚く間もなく寝台の上に押し倒されていた。

 その行為を咎めようとロキが声を上げかけた途端、唇を封じるように塞がれ、そして優しくなだめるように吸われた。

 誘うようにロキの唇が開き、互いの舌が深く絡まると、官能に支配された肉体から力が抜ける。

 触れ合う舌先が敏感になると、さざめくような快感が背筋を走った。

 唇を離したセヴランは、ロキの潤んだ瞳を見下ろして荒い吐息をもらすと、苦しげな声で囁くように謝った。

「──すまない、ロキ。
 だが、あなたを愛せぬまま己が死ぬかもしれないと思うと──怖いのだ。
 あなたの心が定まるまで待とうと思ったが、死が間近に迫ってきたのを感じた途端、あなたをこの腕に抱きたくて堪らなくなった。
 人はいつか必ず死ぬのだと──今になってようやく思い知った」

 その言葉を聞いて長い睫毛を伏せたロキは、頬を寄せてきたセヴランに腕を回し、慰めるように広い背中をゆっくりと撫でた。

 胸に巻かれた包帯はすでに外されていたが、銃弾が突き抜けた痕跡は残っている。

「安心していい……死の影はもうあなたから遠ざかってしまったから。
 だが、いつの日か死の床についたとしても、あなたはきっと主の御許にゆける。
 恐れる事は何もないはず──あなたには神の救いが約束されているのだから」

「来世での永劫の命よりも、今の私にとっては、今生であなたを愛する方が遙かに重要な事なのだ。
 こうして抱き締めていないと、あなたはすぐにどこかに飛んで行ってしまいそうで、ひどく不安になってしまう。
 ここ数日、ずっと遠い目をして──あなたは誰の事を思っているんだ?
 特に今日はそわそわして落ち着かないし、誰を待っているのだろうと疑ってしまうぞ。
 それが誰なのかを知らせないまま、私を嫉妬に狂わせたいのか?」

 まだ右腕は不自由で使えず、左腕だけで己の体重を支えたセヴランは、愕然としたように見返してくるロキを見下ろした。

「違う──待ってなどいない……ただ、来ない事を祈っているだけだ」

 惑乱したように呟いたロキは、突然、自分自身の激しい動揺に驚愕してしまったかのように大きく瞳を見張った。

「──来る? 誰が来るというんだ、ロキ?」

 その言葉に嫉妬心を煽られ、セヴランは強い口調で問いただした。

 しかしロキは必死に首を横に振り、まるで口にすればその人物が現れでもするかのように怯えながら、決して答えようとはしなかった。

 激しい拒絶にかっと頭に血が上りそうになったが、ふとセヴランはちょうど1年前の出来事を思い出していた。

 「ベート」を調査していた己がロキと初めて出会い、そして崖から転落して倒れていた彼を助けたのは、今日と同じ10月31日の事だった。

「あれからちょうど1年になる。
 ──もしかすると、あの時も、あなたはその人物から逃げていたんじゃないのか?」

 確信めいた予感があり、セヴランが問いかけると、ロキは身体を硬く強ばらせた。

 以前よりも遙かにロキの感情を敏感に察知するようになっていたセヴランは、大きく揺れた漆黒の瞳の中にひどく傷ついた光が浮かぶのを見とっていた。

「お願いだ、セヴラン──もう少しだけ待ってほしい。
 あと3日もすれば、全てが明らかになる。
 そうしたらあなたにも話せるから、あと少しだけ待って……」

 すがるような眼差しで見つめられ、それ以上は無理強いすることのできなくなったセヴランは、唇を噛んで顔を背けたロキの頬に、そっと口づけを落としたのだった。