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魔道士の呪檻


<19>



 滑らかな口付けに酔わされたかのように身体は痺れ、甘美な快感がさざ波のように全身へと広がってゆく。

「判るか? おまえの身体は私を受け入れるように創られている」

 己の反応が信じられず、呆然と瞳を見開いているロキを見下ろし、ベリアルはくすりと笑うと、長い黒髪を掻き上げてやりながら耳元で囁いた。

「ロキ──では、どうして私を呼んだ?
 私がいない方が幸福であるなら、おまえは私を召喚しなければ良かったのだ。
 そうすれば、時の檻に囚われたまま、私は現世に戻ることはなかったかもしれぬ」

「──時の……檻?」

「時間の止まった亜空間──過去も無く、未来も無い、一瞬の時が永劫に続く。
 時空の間隙に閉ざされた者があるべき時点に帰還することは難しいが、おまえが私の名を呼んだ事で道が開かれた。
 契約の絆はそれほどに強いのだ。
 だが、おまえは名を呼んだことで、再び私の傍にあることを選びとってしまったのだぞ」

「私は……ただ、おまえから解放されたという証が欲しかっただけだ──」

 涙を隠すように瞼を閉ざしたロキは、己の愚かさを嘆くように唇を震わせ、ベリアルの腕から逃れようと身を捩った。

 ベリアルは愉悦を帯びた妖艶な微笑を刻み、しなやかな強さを秘めた身体を捕らえるように抱き寄せたまま、白い瞼に接吻を落とした。

「残念だが、私はおまえを解放するつもりなどない。
 もっとも、私を時の檻に封じ込め、セヴランに魔獣を放った者は、その辺りを見たかったようだがな。
 おまえへの愛が不変であると、どうやらおまえと同じように疑ったようだ」

「セヴランに……罠を仕掛けた者がいるのか?」

「その名をおまえに告げるつもりはない。
 いずれは知ることになるが、今はまだその時ではないゆえ」

 深いエメラルドの瞳を細め、驚きと怒りに歪められた夜闇のごとき美貌を見下ろしていたベリアルは、ロキを抱き寄せていた手を滑らせ、サーベルを握りしめる手に重ねた。

「──ロキ、剣を渡せ。
 おまえがベートを殺せぬというのなら、私が殺してやろう」

 豊かに響く低い声音に、氷の破片のような冷たさが混ざり込む。

 その酷薄な響きに驚いたロキは、凄艶なエメラルドの瞳の中に非情の闇が満ちていることを認めると、とっさに後方に飛び退き、ベリアルの腕から逃れていた。

「セヴランは……おまえには殺させない!
 少女たちを襲ったのが、おまえの眷属が放った魔獣であるなら、彼には何の責任も無いはずだ。
 セヴランからベートを引き離せ、ベリアル!
 彼の中にいる魔物を倒せば、彼は元の人間に戻れるはずだろう!!」

 すぐに攻撃に移れるようにサーベルを構えたロキは、深い常闇の瞳に意思の炎を燃え立たせ、ベリアルを睨みつけた。

「ベートを引き離し、殺したなら、セヴランもまた死ぬのだぞ。
 それをおまえは知っているはずだ、ロキ。
 おまえの撃った銃弾がベートを貫いた時、同時にセヴランもまた傷ついたはず。
 言っただろう、ベートとセヴランは表裏一体だと。
 かの者の罠は何者にもまして巧妙で、時を戻さぬ限り、ベートとセヴランを分け隔てることなどできはしない」

 顔色一つ変えず、事実のみを冷酷に突きつけたベリアルは、己の罪を認めたようにうなだれている巨狼を見つめた。

「ベートの欲求は、セヴランの欲望から生まれたもの。
 彼が本当に善と光だけで成り立った聖騎士であれば、たとえ魔獣が取り憑かれたとしても、ベートが育つことはなかっただろう。
 だが、セヴランの欲望を見抜き、おまえが彼に惹かれることを予見したからこそ、かの者は時を遡ってベートを放ち、そして私を時の檻に幽閉した。
 全ては、かの者の余興──今も、私たちの様子を見ているはず。
 おまえがセヴランを赦し、解き放てば、彼を喜ばせるだけなのだぞ、ロキ」

「やめろ! それ以上は言うな、ベリアル!」

 悲痛な音色に彩られた声を放ったロキは、きつく瞼を閉ざした。

 心の動揺と共鳴するように、剣尖が揺れる。

「──おまえの言葉を……どうして信じられる?
 全てはおまえが仕組んだ罠かもしれないというのに。
 聖騎士であるセヴランを堕落させ、私が愛した人を殺すことだけが、おまえの目的であるかもしれないのに。
 おまえはいつも私から愛する者を奪い、私に苦痛と孤独を与えてきた。
 セヴランや……ミランダを殺して、私を永遠の孤独の闇に繋ぎ、いつの日か魔に堕とそうと企むおまえの言葉は、全てが虚しい偽りに聞こえる。
 たとえおまえが何を語ろうと、私はおまえを決して信用はしない!」

 誘惑をはね除けるよう必死で自分に言い聞かせながら、ロキは決然と言い放った。

 激しい闘志を呼び起こし、拒絶の眼差しを向けてくるロキを見つめ、ベリアルは氷の美貌に薄い微笑を浮かべた。

「おまえの血を啜り、セヴランもベートもその甘美なる魅惑の虜となった。
 バルドゥルに抱かれるおまえを見て欲望を募らせ、おまえの意思も確かめぬままに抱いたのは誰であった?
 おまえがどれだけ泣き叫んでも、彼は私と共におまえを抱いていたのだからな。
 セヴランとベートの欲望が重なりあった時、彼はあの姿へと変貌した。
 だが、狼となってもなお、彼はおまえを貪ることを止めなかった。
 あの獣に貫かれた感触を覚えてはいないのか、ロキ?
 彼は自ら神の禁忌を破り、獣の姿でおまえと交わった。
 獣姦は許されざる罪……そうではなかったか?」

 深い抑揚に満ちた声はいたぶるような残忍さがあり、その瞬間、ロキの耳元に荒々しい呼吸の音が蘇った。

 ──苦痛から逃れようとする白い背中に爪を立てて押さえ込み、人間ではあり得ない獰猛で巨大な欲望を赤く熟れた秘蕾に突き立てる。

 狂気を宿した双眸は、己を傷つけた敵を屈服させ、その血を啜る喜びに興奮して爛々と輝いていた。

 血塗れになった美しい首筋を執拗に舐めながら、ベートはロキの背中にのしかかったまま、ひたすら激しく腰を打ちつける。

 ロキの花唇を己自身で穿っていたベリアルは、ただ冷淡にその様を見つめていた。

 ベリアルが動き、内部の圧迫感が強まった時、ロキは惑乱して悲鳴を上げ、そのまま総身を激しく痙攣させて失神する。

 それと同時にベートはロキの内部に熱情を迸らせ──そして、ようやくセヴラン・ド・ブランシュとしての意識を回復させたのだった。


「あ…あっ──ああ、いやあぁっ! なぜ…っ──どうして、私を……」

 快感と苦痛が交錯する凄まじい悦楽の中で、恐怖と悲しみ、そして深い屈辱感に打ちのめされたロキは、その恐ろしい行為を無意識のうちに記憶の外に追いやっていた。

 しかしベリアルの言葉で忌まわしい記憶は蘇り、さらなる打撃をもってロキを苛んだ。

「私の言葉が信じられないのなら、自ら真実を見定めるがいい。
 魔獣に血を捧げ、身を任せるということがどういうことなのか。
 おまえが拒めば、ベートは他の人間を襲い、殺すだろう」

 苦悶するように天を仰ぎ、サーベルを握りしめたまま崩れるように片膝をついたロキを見下ろし、ベリアルは残酷なほど冷ややかに告げた。

「──違う……彼は…私を傷つけたことなど……一度だって無かった。
 セヴランは……神に祝福された聖騎士なのだから──おまえとは違う」

 床に突き立てたサーベルで身体を支えながら、ロキは荒波に翻弄される心を抑えることができないまま、認めたくないという一心で呻く。

 ぱたぱたと石の床に透明な涙がこぼれ落ち、ロキは瞬くこともできず、号泣を怺えるように歯を食いしばっていた。

「聖騎士といえど、所詮は人間にすぎぬ。
 善と悪、光と闇の間を常に揺れ動いているのだからな。
 テンプル騎士団とて同じ。
 神に殉じた者がいる一方で、こうして魔神を崇拝した者たちもいた。
 世俗の中で秘密裡に行動する聖騎士は、結局は自らの欲望に逆らえず、堕落してゆく者が多いということだ。
 もっとも、何をもって堕落とするのかは、私には判りかねる問題だがな」

「──言うな、ベリアル!」

 くつくつと冷たく嘲笑う美貌の魔性を、ロキは不意にきつく睨み上げ、憎悪を叩きつけるように叫んでいた。

 己の中にある全ての憎しみを身に纏ったロキは、美しき獣のように敏捷に立ち上がり、そのまま漆黒の魔剣をベリアルに突き立てていた。

 強かな手応えがあり、肉を裂く感触で我に返ったロキは、己の手を濡らす深紅の血を見て顔を青ざめさせた。

「あ……どうして──」

 純白のドレスに鮮血が飛び散り、禍々しい紋様を描き出す。

 サーベルの柄から手を放し、血塗られた手を見下ろしたまま後退ったロキは、その身に刃を受けたベリアルを呆然と見つめ返していた。

 腹部から斜め上方に抜けたサーベルは、ベリアルの体躯を貫き通し、突き抜けた刀身からは鮮やかな紅が止めどなく流れ落ちている。

 しかしその長身は揺らぐことなく、深いエメラルドの瞳でロキを見つめたベリアルは、艶やか魔性の微笑みを唇に刻んだ。

「これで、満足か……ロキ?」

 溢れ出した血に濡れた唇から漏れだした言葉に、ロキは愕然と瞠目した。

 衝撃のあまり動けないでいるロキを見返し、ベリアルは一度小さくため息をもらすと、己に突き刺さっていたサーベルを無造作に引き抜いた。

 溢れ出した深紅の血が床を濡らすと、突然、目眩を起こすほど甘く、官能的な芳香が漂い始める。

 ざわりと闇そのものが動いた気さえして、ロキはもはや耐えることもできなくなり、その場に倒れ伏すように頽れた。

 しかし、その身体はすぐに抱きとめられ、息がつまるほどに強く抱き締められる。

「ロキ──愛せないというのなら、私を憎むがいい。
 だが、いつの日か、憎悪だけではなく、必ずおまえの全てを手に入れる。
 たとえおまえが誰を愛そうと、私の愛は永遠におまえのものなのだと覚えておくのだな」

 意識を失う寸前に囁くような声が聞こえ、血に染まった唇が重ねられる。

 震えるほどの歓喜に身体が恍惚と戦慄くのを感じながら、ロキは深い眠りの闇にゆっくりと沈んでいった。


 力が抜け、ぐったりと倒れたロキを抱き上げたベリアルは、もはや負傷の余韻すら感じさせぬ足どりで巨大な赤褐色の狼に近づいた。

 空間に充満した血の匂いを嗅ぎ、低く獰猛な唸り声を上げている野獣は、もはや人間の情愛など感じさせぬ狂気の瞳を光らせていた。

 ベリアルは感情の失せた冷淡な瞳でベートを見下ろすと、視線を暗い階段へと向けた。

「──行け、おまえの飢えを満たすがいい。
 そして、真の癒しが訪れぬことを、身をもって知るのだ。
 おまえの飢餓を鎮めるのは、ロキ一人。
 だが、私は二度と、おまえにロキは与えぬ」

 告げ終わった瞬間、地上への扉が開かれ、淡い光が地下へと射し込んでくる。

 床にじっと踞っていたベートはぱっと身を翻すと、そのまま地上へと続く階段を駆け上がって行った。

 その姿を見送ったベリアルは、魔神像に捧げられた石段に向かって踵を返した。

 すると、不意に神像の足下にある玉座から、闇と同化していた狼の頭部を持った獣人がゆらりと立ち上がった。

「──結局、あんたはロキを見放したわけではなかったということか。
 だが、あの男を愛したロキを、あんたは赦せるのか?」

 古代エジプトの獣神のように狼の頭部を持つバルドゥルに、ベリアルは非情な視線を向けたが、その後ロキの白い額に接吻を落とした。

「どうして見放すことなどできる?
 一時なりとも忘れず、我が者になることを待ち続けているというのに。
 私は人間であるロキを愛した──ゆえに仕方があるまいな。
 人であればこそ心は揺らぐが、惑うなら引き戻すだけのこと」

 その淡々とした声や口調からは、愛を語る情熱はまるで感じられない。

 それにも関わらず、ロキに対するベリアルの愛は、異常なまでに深い、永久不変のものであるのだと、バルドゥルはこの時悟った。

「非常に悔しいが、俺はあんたに逆らえず、また敵わない。
 まあ、時々は美味なる餌にありつけるだけでよしとする他はないな。
 ──だが、いつまで俺にこの格好でいろと?」

 プラチナブロンドの毛皮に覆われた広く、逞しい肩をすくめたバルドゥルは、狼の頭部を軽く叩いてみせた。

「期限は定めぬが、全てはおまえの努力次第。
 満月の夜だけは人身に戻してやろう。
 だが、それ以外は狼と、半人半獣の姿で彷徨うがいい」

 ベリアルはロキを祭壇に横たえると、不機嫌そうに鼻に皺を寄せたバルドゥルを見た。

 そして掌の上に、闇の魔力を呼び起こす。

 プラチナの光と血のごとくに赤いルビーが現れ、やがてそれは美しい指輪の形となった。

「この指輪に選ばれた者が、やがておまえの前に現れるだろう。
 その者の血と肉が、おまえの飢えを満たし、元の姿に戻す術となる。
 バルドゥル、指輪の持ち主を捜し出すがいい──さもなくば、永遠におまえはその姿に囚われたまま、獣人として生きねばならぬぞ」

 バルドゥルの前に指輪を翳して見せたベリアルは、次の瞬間、その指輪を深い底知れぬ闇の中へと落とした。

 それを見たバルドゥルは、低い唸り声を上げた。

「……相変わらず、情け容赦のない制裁だな。
 だが、その人間を見つければ、俺は元の人間に戻れるというわけか?」

「人に戻しては仕置きの意味がない。
 所詮、今まで通りというだけのこと。
 だが、魔力さえ増大すれば、人身であれる時間もまた長くなる。
 おまえにもロキは与えぬゆえ、せいぜい努力をすることだ」

 くつくつと残忍な笑い声を響かせたベリアルは、禍々しい巨大なバフォメット像を仰いだ。

「去れ、バルドゥル──姿を取り戻すまで、ロキの前に現れる事は許さぬ。
 おまえもまた飢えるがいい」

 厳しい命令に深い嘆息をもらしたバルドゥルは、しかし鮮やかに狼に変身すると、地底から地上へ向かって走り去っていった。

 やがて、どこからか哀しげな遠吠えが響いてくる。

 ロキの傍らに歩みよったベリアルは、次第に重なり合う闇の歌声を聞きながら、意識を失った美しい唇に深く口づけたのだった。





 1767年7月──その日、アプシェ侯爵が指揮をする狼狩りに参加していた森番のシャステルは、貴族たちとは全く別行動をとり、一人で森の中を捜索していた。

 騎馬で行動する貴族たちは、せっかくの足跡も馬蹄で踏み荒らしてしまい、一向にベートらしき狼を見つけることができないでいた。

 森の中を知り尽くしているシャステルは、用心深く地面に視線を向けたまま、早朝から森の中を歩き通しだった。

 次第に疲労で足が重くなり、シャステルは休息をとるため、倒木の幹に腰掛けた。

 用意しておいた昼食を摂りながら、シャステルは革袋の中から聖書をとりだした。

 ジェヴォーダンのベートは、尋常な狼ではなく、魔物を血を引いているのだと、いつの頃からか噂になっている。

 迷信深い村人たちは、ベートの攻撃から少しでも我が身を守ろうと、最近では常に聖書を持ち歩いていた。

 シャステルは、さほど父なる神への信仰が厚いわけではなかったが、それでも何となく薦められるがままに聖書を持ち歩いていた。

 パラパラとページをめくるうち、次第に書かれた言葉に引き込まれていったシャステルは、いつの間にか自分が声を出して読み上げている事に気づく。

 その時、まるで聖なる言葉に導かれたように、突然、茂みがガサガサと揺れ始めた。

 慌てて聖書を傍らに置き、シャステルは弾を込めてあった銃を構える。

 その茂みの中から現れたのは、巨大な体格をした赤毛の狼だった。

 酷く痩せてはいるが、その毛並みといい、背筋に走る黒い毛筋といい、その狼は噂になっているベートの外貌に酷似していた。

 狙いを定めて引き金を引いた瞬間、ベートの肩から血と千切れた毛とが舞い上がった。

 しかしベートは倒れず、余裕のある足どりでシャステルに近づいてくる。

 恐怖に囚われたシャステルは、必死で自分を落ち着かせながら、もう一発の弾丸を込め終えていた。

 間違い無く狙いを定め、引き金を引く。

 ところが、前胸部を貫いたはずの弾丸は、その狼を倒すことができなかった。

 やはり魔物なのだろうかと動揺したシャステルは、見覚えの無い黒色の弾丸を無意識で選び取り、それを装填していた。

 ベートは、まるでシャステルが弾を込め終わるのを待つように地面に座り、じっと薄汚れた森番を見つめていた。

 森番のシャステルは、弾丸が命中して血を流している胸部を狙い、三度銃を構えた。

 だが、ベートは恐れる様子もなく、その場から動かない。

 暖かな色味をした双眸は何かを待ちわびるようにシャステルを見つめ、その獣は、不動の的であるかのように身動きをしなかった。

 凄まじい轟音が響いた瞬間、森中の鳥が空に向かって飛びだしてゆく。

 シャステルは、その巨大な赤毛の狼がゆっくりと地面に倒れる様子を、息を呑んで、ただ呆然と見つめていた。


 満足げに双眸を閉ざし、大きくため息をついた狼は──最後に低く呻くと、そのまま永久に心臓の鼓動を止めた。


 そして──この後、二度と「ジェヴォーダンのベート」は現れることがなかったのである。




─ The End ─