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魔道士の呪檻


<8>



 ── 涙を浮かべて来て下さい
     お願いですから聞いてください
     怒り狂ったベートの 世にも恐ろしい物語を

     すべてが混乱している
     私の隣の村々は 恐怖に包まれていた
     残忍な野獣のこのような殺戮と 恐ろしい怒りを見て
     人々はおじけづいた

     ベートが獲物をくわえると
     肝臓と心臓と頭を むさぼり食った
     不吉な怪獣は ペストのようにあらわれ
     血でしか渇きを癒さない

     その残忍さをパラデルで現した
     多くの若い娘たちをむさぼり食った
     20人の人々を一瞬のうちに 記念物にかえたのを見て
     人々は震え上がった

     200人の勇敢なドラゴンが ベート狩りを行なった
     ベートを殺すためにその跡をたどる
     しかしそれはむだなこと
     残酷にも人々をむさぼり食いながら ベートは生き続けた

     この獰猛なベートを すべての人は恐れ語った
     ベートは巨大で凶暴で
     頭は馬のよう 耳は短い角のよう
     毛は子牛のような茶褐色

     恐ろしい視線の らんらんと光る目は坩堝のよう
     この野獣のすべてが恐ろしい
     人々は非常に恐れた
     足から頭まで ベートは死を予告する

     追い求めることを止めなかった勇敢なデュアメルは
     残忍な野獣を退散させたが
     やがてヴィヴァレーに現れ サンローランにもナレーにも
     ベートはこうして現れた

     あわれな旅人たちは 多くの不幸な人たちを見て嘆いた
     その数はあまりにも多かった
     恐れるのもあたりまえ
     百人もの農民を その牙でむさぼり食ったことを ──



 国王ルイ15世の命令によって、「ベート」退治に送られたドラゴン(竜騎兵)は、しかし何の成果も上げられないまま、ジェヴォーダンを去ることになった。

 ベートによる惨劇はすでに外国にまで広がっており、イギリスやオランダ、ドイツなどの新聞は、フランス国王の軍隊と狼狩猟隊の無能振りを強調し、虚しい祈りを捧げるカトリック教会を揶揄した。

 軍資金が底をつき、追いつめられたデュアメルは、「ベート」をおびき寄せようと部下たちに女装をさせることさえしたが、その作戦も上手くはいかなかった。

 散々辛酸をなめさせられていた人々はこの時とばかりにドラゴンを嘲笑し、残っていたわずかな尊敬や信頼をも全て失うことになったのである。

 「ベート」を倒すために国王がデュアメルの次に送り込んできたのは、最高の狼猟師と名高いデンヌヴァル親子であった。

 彼らはひたすら徒歩で藪や森の中を歩き続け、何時間も執念深く狼を追い求めた。

 デンヌヴァル父子は数十頭もの狼を殺すことに成功し、一頭の牝狼の胃からは、数人分の女の衣服が残骸となって出てきたこともあった。

 だが、それは「ベート」ではなく、別の人食い狼だと判断される。

 ジェヴォーダン地方の貴族とうまく付き合うことができずにいた父子は、貴族たちに裏切られ、苦々しい思いでジェヴォーダンを去らねばならなくなった。

 「ベート」は人々を襲い続けている。

 いったい誰が恐ろしい野獣を倒し、安らかな生活を取り戻してくれるのか──。

 民衆の暗い思いが<哀歌>を作り、苦しみの中で繰り返し歌われるようになった。


 ── 涙を浮かべて来て下さい
     お願いですから聞いてください
     怒り狂ったベートの 世にも恐ろしい物語を……


「ロキ、今夜、ラフォン長官の館で、アントワーヌ・ド・ボーテルヌの歓迎晩餐会があるのだ。
 立場上、私も出席しなければならないのだが、嫌でなければ、あなたも付き合ってはくれないか?」

「──晩餐会?」

 夏になって日が長くなり、昼間の気温は急激に高くなる。

 もともと暑さを苦手としていたロキは、日中はほとんど外に出ることもできず、風通しの良い部屋の中で過ごす時間が長くなっていた。

 その日は特に気温が上昇し、湿地の多い土地柄であるだけに異常なまでに蒸し暑く、ロキはぐったりと長椅子に身を横たえていた。

 汗に濡れた前髪をかきあげ、部屋に入ってきたセヴランを見つめたロキは、気だるげな動作で上半身を起こした。

「日が暮れてからなら行ってもいいが──だが、今の私では足手まといになりかねない」

 薄絹のブラウスをまとい、大きく胸元をはだけさせていたロキは、首筋から流れ落ちてくる汗を指先でぬぐい、深いため息をもらした。

 真っ白な胸を伝い落ちる雫が、淫靡な官能をかきたてる。

 見続けていると理性を失うような気さえして、思わず視線をそらして無意味な咳払いをしたセヴランは、窓の外を見ながら言葉を継いだ。

「このところ暑い日が続いていたというのに、あなたに無理をさせすぎてしまった。
 私もボーテルヌにこれまでの報告をしてやらねばならぬし、調査報告書をパリに送らねばならない。
 ベートの事はボーテルヌに任せて、あなたはしばらく城でゆっくりと過ごせばいい──あるいは、もっと過ごしやすい場所に行ってもよいと思うが」

「王の射撃部隊隊長だからといって、ボーテルヌがベートを射殺できるとは思えない。
 確かに彼は優秀な軍人だろうが、今度の相手は人ではなく、狡猾な野獣なのだ。
 狼の習性を知り抜いたデンヌヴァル親子ですらベートを捕らえられなかったのに、どうして彼が成功するなどと言える?」

 それまでの緩慢な動作が嘘のように鋭い言葉を口にしたロキは、しかしすぐに疲労を感じたかのように顔を覆い、深いため息をついた。

「──すまない、セヴラン。
 この蒸し暑さで、私も苛々しているのだ。
 晩餐会には同行する。
 ボーテルヌを激励して、できるだけ早くベートを退治してもらうとしよう」

 皮肉っぽい微笑を浮かべたロキを見下ろし、セヴランはわずかに首を傾げると、明るい褐色の瞳を微笑むように細め、ゆっくりとうなずいた。


 まだ太陽は地平線上にあったが、薄暗い広間の中には蝋燭の炎が灯されていた。

 ラフォン地方長官が主催する今夜の晩餐会には、ジェヴォーダン地方の名士たちが皆、顔をそろえている。

 ジェヴォーダン地方の領主アプシェ侯爵、モンカン公爵、モランジアス伯爵、そしてマンドの司教──かつらをつけて盛装した紳士たちが重々しく談話し、美しく着飾り化粧をほどこした淑女たちは笑いさざめく。

 主賓はパリから派遣されたアントワーヌ・ド・ボーテルヌ隊長であり、晩餐前の一時、六十歳を過ぎてもなお壮健な軍人の周囲には幾重もの人の輪が出来上がっていた。

 野心の見え隠れする会話と、広間の熱気に疲れてしまい、ロキはそのまま外のテラスへと逃れた。

 先ほどから会話の合間を縫って、ボーテルヌがロキに視線を投げかけている。

 その鋭く狡猾な眼差しに全てを見透かされているような気分に陥っていたロキは、人気の失せたテラスの端まで行くと、手摺に身体を寄りかからせた。

 夕暮れの光が、地上に長い影を作りだしている。
 燃え立つ炎の円盤と、テラスの篝火は、幻想的で郷愁を誘う光景を生み出していた。

「──あなたほどに美しい騎士がいたなら、デュアメルの女装作戦も、案外うまくいったかもしれませんな……エリュアール伯爵」

 ようやく涼しくなった風に心地よく吹かれていたロキは、突然、背後からそう声を掛けられていた。

 驚愕を隠して振り向くと、そこには主賓であるはずのボーテルヌ隊長が立っている。

 ロキが不審げに柳眉をひそめると、真っ青な軍服に身を包んだボーテルヌは、老人とは思えないほど逞しい肩をすくめて見せた。

「薄汚れた粗野な兵士の臭いと、若い女の匂いなら、ベートでなくとも嗅ぎ分けてしまう。
 それに思い至らなかったデュアメルは愚か者でしかないが──」

 ボーテルヌの意図が読めず、その精力的な顔を黙って見返していたロキは、彼が足を踏み出して触れんばかりに近づいて来た途端、愕然として立ちすくんでしまった。

「だが……あなたからは芳しい薔薇の香りがする。
 宮廷の中にいてさえ、あなたほどに美しい貴婦人を見たことはなかった。
 枯れてゆく私をこれほど魅了するのだから、ベートもきっと惑わされるに違いない」

 一瞬も視線をそらさずに見つめてくるボーテルヌに、ロキは冷たい笑顔を見せた。

「私に女装をさせ、ベートの餌にしようという作戦をお考えか、ボーテルヌ隊長?
 残念ながら、私は一度、ベートに会っている。
 あの獣が私の事を覚えているなら、私に近づいてくることはありえないでしょう」

「ご心配なく──ドラゴンの無様な失態を繰り返すつもりはありません。
 優秀な狼猟師15名、そしてアブリュズ地方原産のマレマーノ犬を連れてきましたから、ベートは今度こそ必ず退治されるでしょう」

 自信たっぷりにそう言ったボーテルヌは、義務的にうなずいたロキに鋭い視線を向けた。

「──だが、そのためには、皆さんの協力が必要なのです。
 ラフォン長官やモランジアス伯爵は、私の狩りに全面的な協力をしてくださるそうです。
 モンカン公爵やアプシェ侯爵も、同意してくださっている。
 だが、エリュアール伯爵、あなたはブランシュ殿と手を組み、ほとんど単独で行動なさっているとか。
 ベート狩りの指揮官は、この私です──ブランシュ殿ではない……彼は、あくまでベート事件の調査に遣わされただけであり、狩猟の権限はないのです。
 伯爵、今後はどうか、私の指示に従っていただきたい」

 正当な権利を主張しているように聞こえはしたが、その言葉の端々に賞金への欲が見え隠れしている。

 内心で呆れたように嘆息したロキは、表面的には穏やかな美しい微笑を唇に浮かべた。

「私の望みは、一刻も早くベートが退治されること。
 ボーテルヌ殿の邪魔をするつもりなどないし、協力は惜しみません──それで、ベートが倒されるというなら」

 ロキの言葉を聞き、ボーテルヌは満足そうにうなずいた。

「私が必ずベートを倒してみせます。
 そのために、陛下は私をこのジェヴォーダンへと遣わされたのですから」

「──農民たちが銃を持っていたら、狼狩猟隊に頼らずとも、ベートはもっと早くに退治されていたのではないでしょうか?」

 全身を舐め回すような好色な視線に耐えきれなくなり、ロキは冷ややかな皮肉を口にすると、優雅に一礼をしてその場を立ち去った。

 広間に戻ると、ロキの姿を探していたセヴランが歩み寄ってきた。

「どうした──ずいぶんと不機嫌そうな顔をしているな」

 不思議そうに問いかけてきた騎士を見上げ、ロキは険しく片眉をつり上げると、人差し指をセヴランの胸に突きつけた。

「──あなたが、さっさとベートを捜し出して射殺しないから、あんな侮辱を受けるのだ」

 怒っているようにも見える絶世の美貌を見下ろし、セヴランは不審げに首を傾げた。

「……侮辱? いったい誰に侮辱されたというのだ、ロキ?」

「ボーテルヌに決まっているだろう。
 自分こそが指揮官で、ベートを倒す功労者になると威張っていたぞ。
 あなたはただ調査に来ているだけで、狩りの権限はないとも言っていたな」

 暑さにばてていた事が嘘のように、激しい炎のような雰囲気をまとって憤っているロキを見つめていたセヴランは、穏やかに笑い、そっと華奢な肩を叩いた。

「ロキ、彼の言葉は気にしなくてもいい。
 馬に乗って狩猟を行う彼は、きっとベートを殺害することはできないだろう。
 私たちは今まで通り、調査と称して、ベートを探し求めればいいのだ」

 慰めるような言葉を聞き、ほとんど自分が八つ当たりしている事を自覚していたロキは、それを悔やむように視線を伏せた。

「だが──私たちの前に、あれからベートは姿を現さない。
 これほど多くの人が殺されていっているというのに……」

「私たちの事を恐れているのかもしれないな。
 そうであるのなら、やはり退治するのは、私たちしかいないと言うことだ」

 大らかな微笑みを浮かべたセヴランを見上げ、ロキは疑わしげに眉をひそめて首を傾げたが、やがて小さくうなずいて見せた。