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 暗く湿った地下室には、何十本もの蝋燭が揺らめいていた。

 絶え間なく聞こえる女たちの激しい恐怖と苦痛の悲鳴、そしてすすり泣く声。
 発狂した女もいるのか、けたたましい笑い声も聞こえてくる。

 中央には天井に固定された滑車があり、そこには血塗れの若い女が鎖で繋がれていた。

 両手を鉄の枷で拘束され、鎖で吊された女は、虚ろな目で闇を見つめるだけだった。
 唇が切れ、血の川が真っ白な胸の谷間を通り、床へとしたたり落ちる。

 その瞬間、ヒュンと空を切る音がして、囚われた女の背中で血が弾けた。
 女は獣のような呻き声を上げると、急にその首ががくりと落ちた。

「──もうお終い? つまらないこと」

 月光を思わせるプラチナブロンドの髪を掻き上げ、美しい貴婦人はほっと悩ましげにため息をついた。
 小さな真珠が星のように散りばめられたドレスは女の返り血を浴びて染まり、真っ赤な飛沫が不気味な模様を描いていた。

「ドルヴァラ、これを下ろして、次の兎を吊しなさいな」

 貴婦人の言葉を聞き、部屋の隅にうずくまっている女たちが絶望の悲鳴を上げた。

 女主人の言葉を聞き、腰の曲がった中年の女が椅子から立ち上がった。

「──待て」

 蝋燭の光が届かない闇の中から、静かな声が響いた。
 やがて闇の中から背の高い男が姿を現し、彼はゆったりとした足取りで吊り下げられた女の傍らに近づいた。

「まだ息がある。完全には死んでいないようだ」

 男の目が闇の中で深紅に輝いた。
 彼は片手で女の顔を上向かせると、反対の手で血で汚れた髪を背中の方に撫でつけた。

「まだ少女ではないか。どこで拾ってきた?」

 男の言葉に、貴婦人は冷ややかな声で答えた。

「お金に困っていたようなので、仕事があると言ったら、喜んでついて来ましたわ。
 でも、わたくしの大切な櫛を落としたのです。
 ──当然、罰は必要でございましょう?」

 その言葉に男は苦い微笑を浮かべ、気絶している少女の額にそっと口づけた。

「お気に召しましたの、そのような下賤な娘が?」

 貴婦人は嘲笑うように訊ねた。

「そなたほど、私はえり好みは激しくないつもりだがね」

「わたくしは卑しきものなど好みませぬ。
 若く美しい高貴な血のみが、わたくしを酔わせ、満たすのです」

 うっとりとした声、しかしその美しい顔はどこまでも冷ややかであった。

 男は淡い微笑を浮かべると、命の消えかかっている少女の耳元に顔を寄せた。

「──おやすみ、哀れな眠り姫」

 男は白い首筋に唇をつけると、弱々しく脈打つ血管に鋭い牙を立てた。 




──幽霊帆船<ストリーボグ号>、謎の漂流と座礁。

 いつもよりも遅い昼食を摂っていたロキ・アーヴィングは、その新聞の見出しを見て、思わず笑い出していた。

「どうなさいました、ロキ様?」

 完璧なる執事アルバート・レニングが、ティーカップに紅茶を注ぎながら訊ねた。

「10月20日に、海上をブリッグが漂流していたらしい。
 5日間ぐらい満帆でうろうろしていたんだが、風向きが変わって、港近くの崖に、船首から突っ込んだそうなんだよ」

 深紫色の化粧着を着てくつろいでいたロキは、新聞を見ながら説明をした。

「それはそれは、不運な船ですねえ」

「沿岸警備隊が、木っ端微塵に壊れたこのロシアの帆船を調べて見たらしいんだが、彼らは不思議な事に気が付いた。
 船の中には、誰もいなかったんだ。もちろん、遺体も含めてね」

「──だから、幽霊船というわけですか?」

 納得したようなアルバートを見上げ、ロキは楽しそうにくすくすと笑った。

「それが、よく調べてみると、一体だけ死体が残っていたそうなんだよ。
 ただ、それが干からびたミイラだったらしい。
 その死に顔が凄まじかったために、さすがの警備隊員も腰を抜かしそうになったようだね」

「ちょっと見てみたいな」と笑ったロキを見て、執事は真面目な表情のまま訊ねた。

「その船の積荷はどうなったんでしょう?」

「──積荷? これには書いてないけど、激突した衝撃で海に流されたんじゃないかな」

 確認するかのように新聞を見直していたロキは、ふと他のページに目を止めた。

「こんな事件もあるぞ。
 ──娼婦失踪事件。最近、突然娼婦が町から消えるという事件が起きている。
 いずれも若く、美しい者たちばかりであり、警察も引き続き調査中である。

 ……何だか、切り裂きジャック事件を思い出させるね」

 大きなため息をついて、ロキは新聞を折り畳み、アルバートに渡した。

 彼は少し冷めかかった紅茶を一口飲むと、重い口調で言った。

「とりあえず、今日は奴が来る忌まわしい夜だから、私は外に出かけてくる。
 ホテルにでも泊るから、もし患者が来たら、適当にごまかしといてくれないか?」

 アルバートは動揺することなく、静かに頷いた。
 無個性に見えるアルバートであったが、どうやら「執事」という職業そのものが個性になっているようで、どんな異常事態にも彼は決して動じなかった。

 今はそれが頼もしいと思い、ロキは淡く微笑んだ。

 その時である。

 玄関のチャイムが激しく鳴らされ、しばらくするとバタバタという足音が聞こえてきた。

 アルバートが確認しに出ていこうと扉を開けた瞬間、すっかり取り乱した女性が部屋の中に飛び込んできた。

「──ああ、アーヴィング先生! どうか助けてください!! 
 娘が、マリーが……」

 普段は立派なレディであるはずの女性は、髪を振り乱したままロキの膝にすがりついた。

 そこまで叫んで、彼女は床の上に崩れるように倒れた。

「アルバート、ブランデーを!」

 ロキが叫ぶよりも早く、アルバートはグラスとブランデーボトルを持って歩み寄ってきた。

 気つけの酒を口に含ませると、婦人はやがて意識を取り戻した。

「……スペンダー夫人。どうなさったのです?
 レディのあなたがこれほど取り乱すのだから、よほどの事なのでしょう」

 レディ・フローレンス・スペンダーを椅子に座らせ、ロキはそっと訊ねた。

 スペンダー夫人は青ざめた顔のまま唇を震わせ、ロキの白い手を強く握りしめた。

「お願いでございます、アーヴィング先生。
 どうか娘を、ローズマリーの様子を見てやってくださいませ。
 ずっと起きないと思って見に行ったら……」

 その途端、夫人の青い瞳から涙がこぼれた。

 ただ事ではないと悟ったロキは、アルバートに目配せをした。
 執事は静かに一礼をすると、部屋から退出していく。

「判りました、スペンダー夫人。今すぐ、お宅に向かいましょう。
 馬車で来られたのですか?」

 ロキの言葉に、夫人は何度も頷いた。

「外に、待たせてあります。──ありがとうございます、先生。
 主人は仕事でロンドンに行っておりまして、わたくし、どうしたら良いか判りませんでした。
 執事が先生に相談しろと言わなければ、本当にどうなっていたことか」

 ロキはスペンダー夫人の手を慰めるように叩くと、すらりと立ち上がった。

「では、着替えてきますので、少しお待ち頂けますか?
 ちょうど出かけようと思っていたところなので、本当に間一髪でしたよ」

 着替えるためにロキが寝室に戻ろうとすると、アルバートが声をかけてきた。

「──ロキ様、大丈夫ですか? 今日は30日です。
 もし深夜にまで影響することになったら、どうなさるおつもりです」

 その言葉にロキは一瞬唇を噛み、その後で仕方なさそうに首を振った。

「大丈夫だと思いたいけれどね。
 その時は、その時になってから考えるようにする」

 小さく微笑んだロキを見て、アルバートは珍しく表情を曇らせた。

「あまり無茶な事はしないでください、ロキ様」

「判ってるよ、アルバート。
──それと、リーナにドレスの用意をしておいてもらってくれ。
 去年のようにいたぶられるのは、さすがに御免だからな」