Rosariel.com
魔道士の夜宴


<1>




    おまえの瞳は かけていく月の 光に映えていた

    ゆるやかな流れの上を 鬼火がきらめくように 月はそこに輝き

    夜の風にそよぐおまえの黒髪を 金色に染めた


    愛する人よ 月はおまえの唇を蒼ざめ

     風はおまえの胸を凍えさせた──

       夜は愛しいおまえの頭上に 凍った露をふりそそいだ

   そしておまえは 横たわる──

      昏れた空の刺すような息吹が  自由に おまえを訪れるところに 


<シェリー詩集 冷たい大地は…… より抜粋>


 一階にある診察室から戻ってきたロキ・アーヴィングは、居間の椅子に座ると、深い嘆息を漏らした。

「──アルバート、コーヒーをくれないか」

 両手で頭を抱え込んでいる主人を見て、執事の模範とでも言うべきアルバート・レニングは、少し濃いめのコーヒーをカップに注いでやった。

 ロキは小さくため息をつくと、クリームと砂糖を入れてかき混ぜ、さらにブランデーを少量カップに注いだ。

 椅子の背にもたれかかり、その甘くなった飲み物に口をつけたロキは、ほっとため息をつくと、疲れたように天井を仰いだ。

「──毎日、毎日、予約でいっぱいだし、わけの分らない急患は飛び込んでくる。
 それが、どれもこれも大したことなくて、そろいもそろって若いレディだときた。
 私は頭痛薬や胃薬を出してやるだけなのに、彼女たちは延々帰ろうとしない。

 これほど目が回るような忙しさは、かつて一度だってなかったぞ。
 これも全て、奴のせいなんだからな!」

 続けざまに言葉を放ったロキは、もう一度大きなため息をもらした。

 椅子の上で膝を抱え込み、顔を埋めているロキを見て、アルバートは表情こそ変えなかったが、気遣わしげにその場に立っていた。

「それで、今、あの方はどうなさっているんです?」

 差し障りない質問のつもりであったが、それが与えた影響は大きかった。

 ロキは声を上げて笑うと、膝を抱えたままアルバートを見上げた。

「──レディたちに押しつけてきた。
 『少しお待ちいただけますか?』と聞いたら、皆喜んで首を縦に振っていたぞ。
 ベリアルの奴、客引きにかけては天才だな。
 座っているだけで、ぞろぞろと患者が集まってくる。
 いい迷惑だよ、私にとってはね」

 コーヒーを飲む間、少し休憩をと思い2階に戻ってきたのだが、しかしロキの目論みはすぐに破られることになった。

 居間の扉が突然開き、ここではルドルフ・フォン・ローゼンシュタイン侯爵と名乗っているベリアルが姿を現した。

 英国紳士らしく、黒のフロックコートに同色のベストという格好をしたベリアルは、装飾らしきものが一切無いにも関わらず、恐ろしいほど華麗に見えた。

 最高級の素材を使い、入念なフィッティングと仕立てによって作られただけあって、彼は同時代の英国紳士が憧れるであろう、完璧な理想のシルエットを着こなしている。

 その長身で見事な体格が、圧倒的な存在感を放っていることは認めざるを得なかったが。

「おまえ、患者はどうした? 放ってきたのか?」

 途端に不機嫌になったロキを見下ろし、ベリアルは唇の片端をつり上げた。

「──帰した。うるさかったからな」

 ベリアルがロキの向かい側に座ると、アルバートは何事も無いようにコーヒーをカップに注ぎ、ベリアルの前に差し出した。

「帰したって、一応、私の患者なんだぞ。重病人だったらどうするんだ?」

「重病人がいたら、おまえはここでコーヒーを飲んでなどいないはずだ。
 心配するな。それらしい病は治しておいたから、しばらく来ないだろう」

 ベリアルの言葉を聞き、ロキは柳眉をつり上げたが、すぐに大きくため息をついた。

「──どうせ、明日になればまた来る」

 そもそも、病気で来ているわけではないのだ。
 全ては、このベリアルの顔を見たいがために、女たちは押し寄せてくる。
 炎に自ら飛び込んでいく羽虫のように、彼女たちはベリアルに魅了されていた。

「ローゼンシュタイン侯爵、本当に素敵ですわね。
 まるでハーキュリーズ(ヘラクレス)のよう……」

 甘いため息をもらすレディに、他のレディはくすくすと笑う。

「それを言うなら、ジークフリートでしょう? 彼はゲルマン民族なのですもの」

「ルドルフと言う名には、ドイツ語で『名高き狼』という意味があるのよ。
 あんな美しい牡狼になら、食べられてしまっても良いかもしれませんわ」

 待合室から聞こえてくる秘めやかな会話に、ロキは何度も目眩を覚えそうになった。

 「欲しければ、ご自由に」と言いたいところではあったが、その後の甚大な被害を想像すると、とてもではないが冗談でも口に出せない気がしていた。

 膝を抱えたままぼんやりと窓の外を見つめていたロキは、疲労が高波のように押し寄せてくるのを感じていた。

 朝起きて、診察をして、昼食後に往診に出かける。
 今まで通りの生活サイクルではあったが、ベリアルが来てからはそれが一変した。

 昼間の生活は変えていないし、変えるつもりもない。
 ただ、夜ゆっくりと眠れなくなったせいで、毎朝重い疲労が残っていた。
 常人よりは体力があるはずなのだが、それでも常軌を逸した快楽を毎晩のように与えられては、さすがにおかしくなりそうであった。

「──絶対に休暇が必要だな」

 ぽつりと小さく呟いたロキは、目を閉じて小さく吐息をついた。

「アルバート、しばらく病院閉めるから、後の事はよろしく。
 理由は──そうだな、過労のためとでもしておいてくれ」

 ロキは椅子から立ち上がると、少し驚いているようなアルバートの肩を叩いた。

「判りました。どちらに行かれるご予定ですか、ロキ様」

「ばたばたしているから、国内でいいな。
 ──コーンウォールにでも行ってみようかと思ってる」

 上機嫌になって居間から出ようとしたロキの手を、ベリアルが素早く掴み、引き寄せた。

 体勢を崩したところを抱きとめられ、ロキは憮然として男を睨んだ。

「どうせ、おまえも一緒に来る気だろう?」

「愚問だな。置いていくつもりだったのか?」

 魅惑的な声で囁かれ、唇が降りてくる。

 重ねられる寸前に、男の広い肩を押し返したロキは、冷淡な口調で言った。

「連れて行ってやるが、絶対に他人に迷惑はかけるなよ。
 他人に対しては、あくまでも紳士として振る舞ってくれ。
 それから……」

 さらに言葉を続けようとすると、ベリアルは片手でロキの頭部を引き寄せ、その唇に深い口づけを与えた。

「おまえが私の妻として振る舞うなら、私もそうしてやろう」

 黒曜石のように輝く瞳を、ベリアルはのぞき込んでそう告げた。

 言葉に詰まったロキは、鮮やかなエメラルドの瞳を見つめ、しばらくしてから仕方なさそうに頷いた。

「──判った。ただし、コーンウォールに入ってからだぞ。
 ここから女装で出ていくと、誰に見られているか判ったもんじゃないからな」

 女性たちの好奇な視線から逃れたいがための休暇なのだから、さらに余計な噂を立てられるのは本末転倒だった。

 ベリアルはロキの顔を見つめ、唇に鮮やかな微笑を浮かべた。

「いいだろう。我が妻に、愛情と忠誠をもって仕えると約束しよう」

 手の甲に恭しく口づけしたベリアルを見て、ロキはやや不安げな口調で言った。

「コーンウォールにいる間だけだからな。──帰ってきたら、元通りだぞ」

 警告するような言葉に、ベリアルは黙って頷いて見せると、ロキを強く引き寄せ、あたかも誘惑するような官能的な口づけを与えた。